聖書=マタイ福音書21章12-13節
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている。」
ろばの子に乗ってエルサレム神殿に入ったイエスは、その後直ぐに、神殿の境内で「宮清め」と言われている行為をしました。今回は、誤解されることの多い宮清めについてお話しします。
神殿の境内は巡礼の人でごったがえしていました。その人たちを相手に小動物を売ったり、両替をする商売人の姿が目に入ります。遠方から来た人たちを迎えて商売をしているのです。遠方からの人が家から犠牲の鳩や羊を持参して来るのは大変です。犠牲として捧げる動物は傷なき完全なものでなければなりません。途中で傷がついてしまうと駄目になります。そこで、このような人の便宜のため検査済みの動物を売っていました。また、神殿で捧げることができるのはイスラエルの貨幣シェケルでなければなりません。ユダヤ以外の各地から集まってくる巡礼にとり、両替人がいなければ献金もできません。
神殿での商売と言うと、日本の門前町の凄まじい商売合戦や客引きの光景を思いがちです。しかし、日本の門前町の商売や客引きとは事情が違いました。小動物を売る人や両替人がいないと、神殿礼拝そのものが成立しないのです。そのため、大祭司の許可を得て商売が許され、それは旧約聖書でも認めていたのです。「申命記14:24-26」。
では、なぜ、イエスは「売り買いをしていた人々を追い出し」、「両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒す」ような暴力を振るったのでしょう。柔和なイエスの姿はどこにいってしまったのでしょう。ある人は、宮清めを神殿で商売することへの反対として理解します。これが一般的な理解でしょう。けれど、この商売がなかったら神殿での礼拝が成立しなかったのです。商売人が儲け過ぎていた、商人と祭司が結託していたこともあったかもしれません。イエスはここで彼らの社会的不正に対する怒りに燃えて過激な行為に出たのでしょうか。
ヨハネ福音書では、イエスは「縄のムチ」で追い出したと記します。皮の鞭と違い人を傷付けません。人を傷つけ懲らしめるためではない。イエスは、象徴的な行為をしているのです。預言は言葉によります。同様に、行為によって将来起こることを示すのが象徴行為です。行為による預言です。イザヤは捕囚の悲惨が起こることを示すため、3年間「裸、はだしで歩き回った」(イザヤ書20:3)。エレミヤも神の決定的な裁きが起こることを示すため「陶器師の壺を砕いた」(エレミヤ書19:10)。これらが象徴的行為と言われます。
神殿は犠牲の動物を捧げる場所です。公に犯した罪、密かに犯した罪、家族の罪、いろいろな罪の償いをするところです。この罪の償いのために犠牲の血が流されるのです。「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(ヘブライ書9:22)と記されている通りです。旧約時代は、罪の赦しのため犠牲の動物の血が流されました。
けれど、動物の血が人の罪を償う力があるでしょうか。人の罪を償うことの出来るのは人だけです。動物犠牲は、罪の贖いを示すための「型」に過ぎません。人となられた罪のない神のみ子イエスの犠牲の血による以外ないのです。イエスが十字架で神の小羊として犠牲の血を流して贖いを完成しました。もう動物犠牲は不用です。宮清めは、神殿礼拝の終りを象徴的行為で表したのです。イエスの十字架と復活によって動物を捧げて行う旧約礼拝が終ったのです。
イエスは、さらに「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべき」と言いました。イエスは、動物を捧げる礼拝を廃止しました。しかし、礼拝そのものを廃止したのではなく、礼拝を改革したのです。礼拝とは神との交わりです。人と神との交わりを阻止しているのが罪であり、罪を取り除くため、旧約時代は動物犠牲が必要でした。しかし、イエスの十字架の犠牲により完全な罪の贖いが行われました。これによって、わたしたちはいつでも、どこでも、神と交わり、祈りを捧げることができるのです。祈りは礼拝の一部ではなく、礼拝そのものが祈りです。
イエスは、宮清めの場で、目の見えない人、足の不自由な人たちをいやしました。見逃してはならない大事なことです。祈りとしての霊的な礼拝にあずかるのは誰かということが示されているのです。旧約律法では、身に障害のある者は神殿での各種の奉仕にたずさわることが出来ませんでした。「レビ記21:16-20」。しかし、神礼拝の担い手がここから変わったのです。
イエスは障害ある人たちをいやし、神との交わりに導きました。今まで神殿礼拝から排除されてきた人たちを神との交わりへと招いたのです。ある聖書の註解者は語ります。「神殿の営みは、このままさらに40年続く。しかし、それはもはや神の臨在の無い石垣にすぎない」と。わたしたちは、どこか病んでいる、どこか傷がある、欠けを持っている。イエスは、病み、傷つき、欠けを持つ者たちをいやし、神との交わりに回復して下さいます。いやされた者として、霊的な礼拝、祈りとしての礼拝を捧げる者となって参りたいものです。