聖書=マタイ福音書21章18-19節
朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
わたしたち人間には外側を見て物事を判断してしまう悲しいサガがあります。物事の表面だけで判断して、後になって「しまった」と誤りを悔いることも多いのではないでしょうか。深く内実を見るべき宗教の世界でも、表面的な判断で終始することが多くあるのではないかと思っています。それに対して、イエスの視線は深く鋭く内実の在り方を見ておられます。
今回は、上記の聖書個所からイエスの視線の道筋を見てまいります。イエスが、エルサレム神殿の中で、実のない一本のいちじくの木を枯らしたという事件を取り扱います。同じ事件がマルコ福音書でも取り扱われており、それも参考にします。イエスが超自然的な力で一本の木を枯らしてしまったことに、「なんて無残なことをするんだ」と批判が集まります。
なぜ、イエスはいちじくの木を枯らしたのでしょうか。実がなっていないからといって、枯らさなくても良いでしょう。マルコ福音書では、いちじくの実が稔るには早く時期外れであったと記します。やさしいイエスが、こわいイエスに思えてきます。宮清めの事件と同じです。ろばの子に乗る柔和なイエスが急にムチを持って商売人たちを追い出した。人が変わってしまったような印象を与えます。実は、このいちじくの木を枯らしたことも象徴的な行為なのです。
いちじくは、6月頃に実がなり始めます。過越しの4月頃は季節外れです。イエスがいちじくの木に近付いて確かめると葉ばかりで実は見当たりません。旧約聖書では、ぶどうと共にいちじくも神の民の象徴でした。イエスは、エルサレムの神殿に入るに当たり、この町の人々の信仰の有り様を、このいちじくの木にご覧になられたのです。預言者エレミヤは、「わたしは彼らを集めようとしたがと、主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは、彼らから失われていた」(エレミヤ書8:13)と言いました 。「いちじくの木にいちじくがない」という出来事が、ここに起こっていたのです。
エルサレム神殿の中は、過越しの祭りのため世界中から集まって来た人たちでごった返しています。神殿の庭の中で、犠牲の小動物が売られ、両替する商人が忙しくしています。それは犠牲を捧げる祭りが次々に行われ、献金が豊かに捧げられていることを意味しています。多くの人の目には、イスラエルの神信仰が盛んであると映ります。ユダヤと神殿の繁栄が見える形で現れていると言っていいでしょう。
しかし、イエスの目には、神殿の盛況が葉ばかり茂らせた実のないいちじくの木と映っていたのです。なぜ、イエスは、いちじくの季節でもない時期に実を求めたのでしょう。イエスは、ごく僅かでも寒さに耐え試練を経てきた稔りを見ようとしたと言っていいでしょう。エルサレムは神の民イスラエルの歴史を担ってきた町でした。この神の民の中に、アブラハムの信仰を受け継ぐような者を見いだしたかったのですが、見いだせなかったのです。そのため、イエスは神の民イスラエルをいちじくの木に見立てて、これを審き、枯らしてしまったのです。やがて来たる審判の予告です。
イエスが求めた「実」とは何でしょう。良い行いでしょうか。それも枝葉に過ぎません。イエスの求める実は悔い改めです。自分の行い・善行を誇るのではなく、罪を認めて神に立ち帰ることです。パリサイ人の自分を誇るような祈りではなく、自分の無力さと罪深さを知り、神に信頼する以外ない取税人の祈りに現れる悔い改めです。
さらに、神に希望をおく信仰です。アブラハムは信仰の父と呼ばれました。彼が90歳、妻が80歳になった時、神は彼に「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(創世記15:4)という約束を与えました。アブラハムは、死人をも生かす神を信じ、この神の約束を確信したのです。イエスの求めている信仰の稔りとは、アブラハムの信仰を継ぐ者を求めたのです。
「たちまち枯れてしまった」と記されています。その場で、イエスの言葉が実現したことを見て、弟子たちは驚き尋ねます。「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と。すると、イエスは信頼の祈りを教えられました。真実を伴わない形式的な祈りではなく、まことの神信頼の祈りを捧げることです。ユダヤの民は、犠牲を捧げる形式的な礼拝を捧げて葉ばかり茂らせてきました。しかし、その内実としての悔い改めと神に信頼する信仰が失われていたのです。
この危険性は、今日のわたしたちにもあることを覚えなければなりません。キリストの弟子たちも葉ばかり茂らせているいちじくのような信仰生活をする危険があります。ですから、イエスは弟子たちに対して「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば……」と言われたのです。信仰は決して外見的なものでなく、内から溢れてくるものだと言われました。