聖書=マタイ福音書21章28-32節
「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
この箇所は、サンヘドリン議会から派遣されてきた人たちとの論争の中で語られたイエスの例え話です。「ある人に息子が二人いた」と話し始めます。二人の息子の物語は、旧約聖書を読んでいる人には直ぐにピンと来ます。旧約の中には、幾つかの兄弟の物語があります。1つはカインとアベルの物語、2つはエサウとヤコブの物語です。この2つの物語が例え話の下敷きになっているのです。
旧約の兄弟たちの場合、二人の息子とも父の子であることは変わりませんが、いつも順序が逆転して、弟の方が祝福を得ています。普通には長男が父の後を継ぐのが順序ですが、神の前ではしばしば逆転します。カインとアベルでは、神のみ心に適った捧げ物において、兄のカインでなく、弟アベルが神の祝福を受けました。エサウとヤコブの場合も、兄のエサウが弟ヤコブに仕えることになりました。
新約聖書で、パウロはこのことを通して神の恵みの選びを語ります。ところが、イエスがここで語っている例え話では、弟ではなく兄が祝福にあずかる物語なのです。逆転の逆転が起こる物語です。ユダヤ人は、自分たちこそアベルの子孫、ヤコブの子孫であるとして、確信と自尊心を持っていました。ユダヤ教当局者を目の前にして語られただけに物凄い迫力があります。イエスは命をかけて語られたのです。聞く者に強烈な打撃を与えて、イエスを殺そうと決意を固めさせたのです。
ここで語られているのは、なぜ、選びの民である弟が捨てられるのかという理由が語られているのです。神の主権的選びは、一方では「安心感」が出てきます。「わたしは救われている。何をしてもいい」と言う安心感です。「アブラハムの子孫だ。割礼の民だ」というユダヤ人の安心感です。他方では絶望感です。「わたしは救われない」という自暴自棄です。徴税人や遊女、異邦人の中にある「神とは関係ない」という気持ちです。
神の選びは、誤った安心感を与えるものでもありません。また絶望感を与えるものでもありません。神の選びは、合格したら安心、不合格だったらダメというものではありません。ここで語られている例え話は神の恵みの選びの奥にある信仰の真実を示しているのです。
この例え話の中の「父」は神を指しています。兄は、「ぶどう園で働いてくれ」と言う父の言葉に対して「嫌です」とはじめは応えます。しかし、実際には「考え直して出かけました」。父は弟にも同じように「ぶどう園で働いてくれ」と頼みます。弟は「お父さん、承知しました」と口先では調子よく応えますが、結局「出かけなかった」。
この弟の方が、ユダヤ教の指導者たち、その指導者たちに指導されていたユダヤの民の姿を示しています。彼らは口先では宗教的なことを語り、形の上ではいかにも信仰者らしく振舞います。しかし、それはあくまでも形の上、表面のことです。心の中で、実際の生活の中で、神への服従はありません。神のみ心への服従はどこにもないのです。
ところが、兄は父から「ぶどう園へ行って働いてくれ」と言われると、「嫌です」と答えましたが、思い返して出かけていきます。この兄の姿が「徴税人や娼婦たち」なのです。彼らは、当時、ユダヤ人たちからつまはじきされ、神から見捨てられた異邦人と同じに扱われてきました。
神は、すべての人に信仰を求めらます。信仰は、口先で神を敬い、形の上で宗教的な振舞いをすることではありません。信仰があること、神に従うことが大前提です。信仰が失われているならば、実のないいちじくと同じです。イエスが求める信仰とは、「心を変えて神に向き直ること」、悔い改めと服従です。神に従うことなどは嫌だ、と言ってきた自分の罪深さを認めて、神に立ち帰ることが悔い改めです。父なる神の言葉に従って生きることです。
イエスは、この例え話を語って、サンヘドリンの議員たち、祭司たち、長老たちのかたくなな心に対して「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入る」と言われました。この例え話は、当時のサンヘドリン議会の人たち、ユダヤ人指導者たちだけに語られたメッセージでしょうか。決してそうではありません。今、聖書を読む、わたしたちキリスト者に対しても語られているのです。わたしたちは、この例え話の中にある兄に当たるのか、それとも弟に当たるのか、一人ひとりに自己吟味が求められているのです。