聖書=マタイ福音書21章33-40節
「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
この個所も、イエスとサンへドリン議会から派遣された当局者たちとの議論の一部です。イエスは「もう一つの例えを聞きなさい」と語り出します。この例えは43節までですので、そこまでお読みください。この例えは明らかに前の「二人の兄弟」の例えに続いています。ぶどう園の主人は神です。ぶどう園は神の国で神の恵みによって祝福の中で生きることです。ぶどう園の管理を託された農夫たちは旧約の神の民イスラエルの人々です。
主人が収穫の分配を受け取ろうとして送った僕たちは旧約預言者たちと言って良い。最後に送った「わたしの息子」とはイエスのことです。イエスが、この例え話で語ろうとしているのは、「兄と弟」の例えと同じように、神の選びを受けてぶどう園を託されていた人たちが神の信頼と委託に応えずに、逆に神の僕たちを迫害し、最後には神の子であるイエスさえも殺してしまう十字架の出来事を暗示しているのです。
この例えで、イエスが第1に示しているのは、主人である神の具体的な愛と配慮の深さです。主人は丹精込めてぶどう園を造りました。荒れた土地を耕し、ぶどうの木を植え、手入れして実が稔るまでに育てました。ぶどう園を守るために、垣根を設け、見張りやぐらも造ります。ぶどうを醸造する施設も造りました。農夫たちが安心して生活できるように至れりつくせりの施設を造って貸しています。十分に安定した生活ができる条件が整えています。
イエスは、さらに神の忍耐を語ります。主人は、農夫たちのところに収穫の分配を受け取ろうと僕たちを送ります。しかし、農夫たちは僕を次々に虐待し殺してしまう。主人は忍耐を続け、繰り返し僕たちを送り、最後に「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って自分の子をも遣わすのです。忍耐深い神の姿が描かれているのです。
対照的なのが農夫たちの敵意と残酷さです。主人に収穫の分配を渡さないことは、主人を主人として認めない反逆です。クーデターと言っていいでしょう。なぜ、神の選びの民イエラエルが神に背く結果になったのでしょう。形式主義的な信仰生活のゆえです。ユダヤ人は、神殿の礼拝を守り、捧げ物をし、律法を守った生活をしていました。しかし、彼らの宗教生活は形だけのものに過ぎず、神を神としない不信仰が支配しているのです。神に選ばれ、ぶどう園を委ねられたことは、それにふさわしい責任が伴います。ところが彼らは選びを誇りに変えてしまった。主人が貸し与えたぶどう園を自分のものにしてしまい、主人の恵みを忘れ、反逆の民となったのです。この農夫たちの罪が裁かれます。神は必ず罪を罪として裁かれるお方です。
この例え話の最も大切な点は、このぶどう園が最終的にだれに貸し与えられるかということです。このぶどう園で例えられているのは神の国です。神の与えて下さる祝福と救いの恵みの中で生きることです。罪の赦しにあずかり、神と共に生きることであり、神の祝福の全てをいただくことです。これこそ、キリストが与えてくれる恵みの国です。この恵みと祝福が誰に与えられるかということが、この例え話の主眼なのです。
農夫たちとは、旧約の神の民イスラエルです。この農夫たちの罪が徹底的に裁かれることが示されます。イエスから問われた彼ら自身が、「収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」と言う通りです。悪しき農夫たちが裁かれます。そして、ぶどう園は別の人に貸し与えられます。異邦人に貸し与えられることになります。けれど、異邦人であったら誰でも救われるのではありません。「ふさわしい実を結ぶ民」と言われています。悔い改める者ということです。
先の「二人の息子の例え」の中で、兄は「嫌です」と言ったけれど、後から心を変えて出かけていきました。悔い改めたのです。悔い改めて神を信じる人に、神の祝福は与えられるのです。わたしたちも自分の心の奥を見詰めたいものです。自分の心の中に欲望が渦巻いていないかどうか。真実の信仰を妨げていないかどうかを吟味しなければなりません。信仰者らしい外面的な衣裳をまとっていても、おごり高ぶった心が支配していないかどうか吟味しなければならないのです。そして、キリストによって示されている神の愛を感謝して受け入れることです。イエスの訴えの声に耳を傾けて、悔い改めて神に従う者となりたいものです。