聖書=マタイ福音書21章42-44節
イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
この箇所から、イエスが語られた「隅の親石」について学びます。わたしは下手の横好きですが囲碁が好きです。上級者を相手にするとコテンパンに打ちのめされます。しかし、負けながらも考えながら石を打つことには面白さを感じています。時に、「この石は死んだなあ」と思って、ある石を捨て石にすることがあります。ところが、しばらくすると捨てたはずの石が生き返って盤面を一変させるようなことがあります。初心者特有のことと言っていいでしょう。
イエスがここで語っていることも一度捨てられた石が「隅の親石」となった、逆転が起こったことを教えているのです。「隅の親石」とは、建築などで用いられる言葉です。家を建てる時、建築家は四隅の土台の場を定めてそこに石を据えます。その四隅の土台の最も基本になる角の土台石が「隅の親石」と言われます。「コーナーストーン」と言われます。
日本の一般家屋の建築期間は数ヶ月から1年以内でしょう。その程度ですと、よほどのことがない限り土台石を移すことは起こりません。しかし、ヨーロッパなどの教会堂建築では数百年かけて行われるものもあります。現在も「ザクラダファミリア」などがあります。厳密な設計図などもありません。最初に基礎を置いた建築家が亡くなると、後継者はまた別の意図を加えて建築を続けます。数世代の中で礎石の移動が起こります。最初の建築家が「この石は役に立たない」と見捨てて除外したはずの石が、建物が実際に完成した時には最も大切な土台石、隅の親石になっていたということが起こるのです。逆転が起こったのです。
イエスは、神殿の庭で、サンヘドリン議会から派遣されてきた人たちに2つの例えを語りました。1つは「二人の息子の例え」です。「ぶどう園に行って働いてくれ」と求めた父に対して、兄は最初、「いやです」と応えましたが、思い返してぶどう園に行き働きました。弟は最初「はい」と応えましたが、実際には行きませんでした。2つは「ぶどう園の農夫の例え」です。主人が完璧なぶどう園を造り、農夫たちに貸し与えて旅に出ました。やがて主人は分け前を求めて僕たちを送りますが、農夫たちは僕たちを次々に殺し、遂には主人の息子さえも殺してしまう。
イエスの話を聞いた人たちは「そんなことがあってはなりません」と言い「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」と言います。この人たちに向かって、イエスは今まさに、それが起こっている、と語ったのです。ぶどう園の乗っ取りが行われている。この乗っ取りによって「ぶどう園を、収穫を納めるほかの農夫たちに貸し与える」ことが、これから起こる。起こりつつあると言ったのです。
この2つの例え話を踏まえて、イエスは「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」と語ったのです。農夫たちはぶどう園を自分たちのものにして、主人から簒奪したのです。しかし、ぶどう園の主人は生きておられる神で、罪を罪として裁かれるお方です。民の指導者は大きな見立て違いをしていました。跡取り息子を殺せばぶどう園は自分たちのものに出来ると考えた。しかし、これは決定的な判断の誤りだ、主人は生きているのだ、とイエスは言ったのです。
律法学者たちや祭司長たち、彼らこそ神の民の指導者です。この人たちによってイエスは見捨てられました。捨てられた石です。ところが逆転が起こる。「言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と言われました。この例えの最も大切な点は、ぶどう園に表されている神の国、神の祝福が、別の民に与えられることです。これが「隅の親石の物語」です。
ユダヤの指導者によって捨てられた石が新しい建物、新しい神の民、キリストの教会の最も大切な「コーナーストーン」となったのです。ぶどう園で示されていることは神の与えて下さる救いの恵み、神の祝福の全体です。神の祝福の中で生きることです。キリストによる罪の赦し、神と共に生きること、神の祝福の全てをいただくことです。この神の救済の恵みが最終的に誰に与えられるかということが、この例えの焦点です。
ぶどう園の担い手が大きく代わる。「他の人たちに与えられる」と、イエスは言います。異邦人と言われて来た人たち、契約の外にあると言われた人たちです。捨てられた石こそ、新しい神の国、新しいぶどう園の礎石です。死んでよみがえった復活のキリストです。キリストを人生の土台として生きる人に神の祝福としてぶどう園が委ねられるのです。神の国は「血によってではなく、肉の欲によってでも」得られません。神の国は、キリストを信じる人に与えられます。あなたも、キリストを受け入れ、神に従う者となってください。