聖書=マタイ福音書22章17-22節
ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。
この個所は納税についての問答です。いつの時代でも、一般庶民にとって税金は好ましいものではありません。イエス時代のユダヤの民衆は重税であえいでいました。ユダヤ伝統のエルサレム神殿とレビ族を支えるための「10分の1税」があり、加えてローマ帝国の支配下に入ったために「人頭税」が加えられました。加えて、いろいろな物品税、関税などがありました。
イエスのもとに、ファリサイ派とヘロデ党の人たちが来て論争を挑んだのです。ファリサイ派はユダヤ教保守派で政治的には反ローマでローマへの納税には反対しています。ヘロデ党はヘロデ王家に親しいローマ支持グループです。皇帝によって認知された領主は徴税の最高責任者です。ファリサイ派はやむなく納税するが、自分たちは神の民であり、ローマ帝国に納税する義務はないと考えていました。そのため、いつもは対立関係にあった人たちが一緒にきたのです。
彼らはイエスに質問します。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか」と。この「税金」という語は、ラテン語センサス(人口調査)からきた言葉です。人口調査に基づいて掛かってくる人頭税です。男子14歳、女子12歳以上になると納めねばなりません。この納税が、律法に照らして合法か否か、という問いです。現実にはファリサイ派も不承不承納税しています。現実的な問いではなく、律法問題として問うのです。ここでもし、イエスが「合法」と言えば反ローマの心情を持つ民衆の失望を買い、「違法」と言えばローマに対する反逆として総督に訴える口実ができます。
イエスは彼らの悪意を見抜いて言います。「税金に納めるお金を見せなさい」と。皇帝への納税はローマ銀貨で納めていました。彼らはデナリオン銀貨を持ってきてイエスに差し出します。イエスは、それを見て「これはだれの肖像と銘か」と尋ねます。デナリオン銀貨には、月桂樹の花輪で囲まれた皇帝の顔が刻まれ、その周りに「神聖なるアウグストの子、ティベリウス・カイザル・アウグスト」と名と称号がラテン語で記されています。彼らは銀貨の表に刻まれている皇帝の肖像と記号を読み取り、「皇帝のものです」と答えざるを得なかった。
すると、イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言います。この言葉は、どんな意味でしょう。1つは、国の権力を認め従うことです。「皇帝のものは皇帝に」と言います。具体的にはデナリオン銀貨を指しています。肖像と記号の刻まれた銀貨は皇帝のものというごく直裁的な意味です。納税の肯定であると共に、皇帝の政治的秩序の肯定と言って良いでしょう。イエスは、納税を認めることによって皇帝に服すべきことを教えました。例え、武力によって得られたローマ皇帝の専制王権であろうと、皇帝によって遣わされた総督やヘロデ王の権威であろうと、今日の日本の自民党政府の権威であろうと、税金を納めて世の権威に従うことが求められているのです。
それでは、イエスはヘロデ党の立場と同じ立場なのでしょうか。後に、この問題について考え抜いて語ったのがパウロです。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」(ローマ書13:1-2)。「上に立つ権威」とは世俗的な権威です。上に立つ者が神を信じている場合も、不信仰の場合もある。しかし、「今ある権威はすべて神によって立てられもの」と見ます。イエスはヘロデ党と同じ立場ではなく、すべての権威の背後にある神の摂理の故なのです。
しかし、イエスはすぐ続けて、「神のものは神に返しなさい」と言います。「神のもの」とは何でしょう。ある人は神殿への10分の1献金であると言います。それだけでは政治的な領域と宗教的な領域という二元論的な考えになります。日本人には親しみある考え方です。国家への税金を払いなさい。また宗教も大切にしなさい、となります。イエスの考えとは違います。
「神のもの」とは神の神たること、神の主権を指しています。神の主権がどこに記されているのか。神のものには神の形が刻印されています。神の形が刻印されたものとは人間です。人格、良心です。皇帝にはデナリオン銀貨という見える形での服従を返せば良いのですが、神に対しては人格そのもの、良心の服従が求められているのです。
イエスは「神のものは神に」との言葉で、世の権威も踏み込むことの出来ない神の領域があると語ったのです。神が刻印されている人格、良心は、神に従って生きるのです。国の権威も、どんな人間的な権威も立ち入ることの出来ない領域です。日本は良心に従って生きることの難しい世界です。しかし、キリストを信じる者の使命は良心に従って生きることです。国の秩序に従いつつも、神の国の民である者は神に従って生きるのです。それがキリスト者の使命なのです。