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第179回 山に逃げなさい

聖書=マタイ福音書24章15-18節

「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。……」

 

 ここに記されている事柄は、紀元70年に、実際にエルサレム神殿の崩壊によって成就された出来事です。イエスが、ユダヤ戦役と言われているエルサレム神殿の崩壊とそれに伴って引き起こされる混乱への対処を弟子たちに教えた大事なところです。

 エルサレム神殿の崩壊とさらにマサダ要塞の陥落によって終わったユダヤとローマの戦いは、ヨセフスの「ユダヤ戦記」に書き残されています。ユダヤ人は長い時間をかけて密かに武器を蓄え、軍備を増強し、兵士の訓練を積んできました。備蓄された軍備は必ず暴発します。だれにも止められません。ユダヤ人は、偽預言者や指導者たちによって「神殿は神に守られて不敗・不滅」という信仰を持たされ、ローマ帝国に対抗して解放戦争を起こします。

 丁度、太平洋戦争の末期に「神州不滅」が言われたのと同じ精神構造です。ユダヤ人は老若男女ほとんどの人が神殿に籠城して戦いました。戦いの前後から「飢饉」は激しく、「身重の女や乳飲み子を持つ女」の悲惨は言語に絶するものがありました。神殿が陥落した時、飢えで死んだ人の死体が二千体以上あったと、ヨセフスは記しています。

 この事態を、イエスは鋭く見抜いていました。イエスの十字架処刑のおよそ40年後のことです。その時に、イエスの弟子たちが取るべき道筋を、預言、予告として語っているのです。「憎むべき破壊者」とは、具体的にはカイザルの肖像のついたローマ軍の軍旗を指しています。ローマの軍旗を持つ者たちが、エルサレムを囲む時のことが予告され、その時に際してのイエスの弟子たちの対処が教えられているのです。

 イエスの弟子たちもほとんどがユダヤ人で、エルサレム周辺の街々、ユダヤの各地で生活していました。他のユダヤ人たちと同じです。その弟子たちに、イエスが語った言葉が「その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」ということです。イエスは、ここで「同胞と共に戦って死ね」とは決して言いません。「エルサレム神殿は不敗だ」とも言いません。「ローマ軍と戦って神殿を死守せよ」とも言いません。イエスにとって、エルサレム神殿は不要の存在でした。

 イエスは弟子たちに「山に逃げなさい」と語ります。「山」とは特別なある1つの山のことではありません。戦闘のないところ、身を隠して避難できるところです。そこに、避難しろ、逃げろ、ということです。イエスの弟子たちは、この言葉をきっちり覚えていて、ユダヤ戦役においては、ユダヤ教徒と一線を画し、戦うことなく、戦場から遠く離れたペレア地方(ヨルダン川東岸の地域)に移住したということです。イエスの警告が生きたのです。

 イエスは、危機に際して戦うことなく、「逃げること」を勧めています。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ福音書5:38-39)と、無抵抗を勧め、報復することを禁止します。それでは自滅を待つのか。決してそうではありません。

 知恵深く、冷静に判断して、逃げるのです。イエスは早い時期から弟子たちに「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」(マタイ福音書10:22-23)と、迫害に際しての逃亡を命じているのです。

 「逃亡」は、かっこいいものではありません。どのような理由からでも、同胞たちが戦っている時、自分たちを育ててくれた郷里を捨て、家族を捨て、自分と家族のいのちを守るのですから、卑怯者と呼ばれ、売国奴とも呼ばれ、国賊とも言われるでしょう。

 しかし、今日の世界は「逃亡の結果」であることを知らねばなりません。宗教改革期とその後のヨーロッパ世界は亡命と逃亡の連続でした。その最も大きな出来事は、メイフラワー号による旧大陸から新大陸への移住です。今日もいろいろな理由から多くの人の逃亡が続いています。ベトナムから、アフガンから、アフリカから、南米から、そしてウクライナから、多くの人々が流動しています。逃亡は決してマイナスではなく、新しい世界を構築していくのです。

 人を殺すことになる戦争は、どのような名目があっても「殺してはならない」という律法違反であり、神の意志とは異なります。個人的であれ、国などの集団であれ、殺人を命じ、殺人を犯すことは、イエスの意志では決してありません。郷里を離れ、国を捨てることは、つらいことですが、キリスト者にとっては帰るべき真の故郷は天国なのです。天国に帰る時までのわたしたちの住処は、どこであっても「仮住まい」に過ぎません。