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第180回 再臨の信仰

聖書=マタイ福音書24章32-36節

「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」。

 

 キリスト教信仰は、キリストが再び来るという「再臨」の信仰を持っています。再臨信仰は旧約に根ざし、イエス自身も語り、新約聖書に一貫して語られている希望であり、信仰にとって生命的な事柄です。初代教会の人たちは再臨を近接することとして真剣に待ち望みました。それは理由のあることです。目前で、イエスの出来事を見ました。十字架と復活、昇天、聖霊降臨という救済の主要な出来事を受け止めました。その連続で、再臨・終末が近いと理解したのです。

 再臨は、まことの慰めを受ける時です。どんなに迫害され、苦難があり、裏切られ、悲惨の中に置かれても、それに耐えることができるのは、再びイエスが来て、全てを裁き、回復し、わたしたちの目から涙が拭われ、主と共に永遠に生きる希望があるからです。この希望があるから迫害と苦難に耐えられるのです。再臨の信仰は、信仰、希望、愛というキリスト教信仰の基本的な構造の根底にあるのです。

 初代教会のごく初期の時代の人々は、やがて直近で起こる対ローマとの戦争、ユダヤ戦役と再臨とを混同していました。イエスは、直近で起こる対ローマ戦争とそれに付随する出来事と、歴史の終末に起こる再臨とをしっかり区別して語っています。混同しないようにと、イエスは理性的に語ります。これは、ユダヤ戦役だけのことではありません。いつの時代であっても偽預言者は存在し、戦争の騒ぎやうわさは絶えません。

 その中で、イエスは、信徒の中に再臨を待つ緊張感の失われることをも見通しています。そこで再臨の確実であることを「いちじくの木」の例えで語ります。目前の「戦争と戦争のうわさ」などによって、大切な「再臨」信仰の真実が見逃されてはならないのです。

 イエスは、「いちじくの木」を取り上げて再臨の確かであることを物語ります。春になっていちじくの木の枝に葉が出てくると、当然、収穫の夏が間もなく来ることが分かります。これはだれにも分かることであって自然の現象は逆行することはありません。春の次に、突然冬が来ることもありません。その年によって夏の来るのが遅れることはあるでしょう。けれども春から冬に逆戻りすることはありません。どんなに寒い日々が続いても春の次ぎには夏が来ます。

 そのように季節の到来が確かであるならば、キリスト再臨の約束はそれ以上に確実なのだと、イエスは語るのです。「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」と言います。イエスは再臨を語るに際して、ここでは和やかな自然の営みを例に取っています。再臨は、決して戦争などのおどろおどろしい出来事と関連して語られるものではありません。「枝が柔らかくなり、葉が伸びる」という和やかな自然の営みに目を見開くならば、「再臨」の必然さを読み取ることが出来るのです。「あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と語られています。

 「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。「はっきり言っておく」とは、イエスが真実をもって語ることです。「これらのこと」とは、自然の営みの中で芽が出て、葉が伸び、実が稔るという時をかけた順序ある営みのことです。これら自然界の一連の順序が「この時代」です。慌ただしい瞬間ではなく、長い時間と季節を経た「一巡りの時代」なのです。戦争があっても、疫病が起こっても、洪水が起こっても、恐れる必要はありません。「この時代は決して滅びない」。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と、イエス自身が約束しているのです。

 再臨の時期についてのことが語られます。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と言います。この言葉に対して、神のみ子が知らないのはおかしいと言う人もいます。イエスは、わたしたちの側に身を置いて語っているのです。再臨の日も時刻も分からないわたしたちの側に立って、「わたしも知らない。知らなくてもよいのだ」と言って下さるのです。

 再臨の時を知らないことは、わたしたちの救いにとって妨げになりません。再臨の時を知ることは、信仰の本質にとって問題外であるだけでなく、不必要なのです。「子も知らない」ということの意味は、そういうことです。もし、「その時」を知ったら、わたしたちはどうするでしょう。信仰も、忍耐も、待ち望むことも、目覚めていることも、全てが空しくなるのです。わたしたちは希望を持って日々備えして生きるのです。