聖書=マタイ福音書24章45-51節
「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
イエスの語った例え話で管理人の物語です。「忠実で賢い僕」と「悪い僕」の二人の僕が語られています。今日、日本の国は政治のリーダーたちの不始末や不作為、不法行為などによってたいへん混乱しています。コロナ禍の中で、きちんとした医療体勢が整いません。物価の高騰によって人々の生活が行き詰まっています。貧しい人たちが益々貧しくなっています。多額の費用で戦争のための武器は購入しても、医療や教育に回すことはしません。政治家は国会で虚偽を語り、議論さえ封じてしまいます。いったい、どういう僕でしょうか。
大臣は、英語で「ミニスター」と言います。僕、奉仕者・管理人です。わたしたちは、このイエスの例えから、わたしたちの国はどのような管理人を持っているのか、検証することが求められているのではないでしょうか。主人がある僕を管理人として選んで他の僕たちを管理させ、彼らに正しく食物を供給分配させます。主人は、しばらく旅に出て、やがて帰ってきます。管理人としての在り方、奉仕の仕方が問われているのです。
管理人の役目を与えられた僕の一人は、いつ主人が帰ってくるかは知らされていませんが、忠実に思慮深く働き、管理します。これが「忠実で賢い僕」で、「主人は彼に全財産を管理させる」と言われます。主人の留守の間の務めは、その後の全てを委ねるためのテストでした。
イエスは、また悪い管理人の姿も語りました。「主人の帰りは遅いと思い」、仲間を殴り、酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしました。傲慢で、主人から託された権利を乱用して好き勝手なことを行います。ドンチャン騒ぎは、主人のものを自分のものにする盗みです。それに対して、主人は思いがけない時に帰ってきて、彼を処分するということです。
この例え話の「主人」とは、イエスご自身です。主人が旅に出て留守をすること、やがて帰って来ることは、イエスの昇天と再臨とを示しています。2種類の僕、管理人は、誰かと言うことですが、この例えの焦点は、忠実で賢い管理人ではなく、後半の悪い管理人にあります。この悪い管理人はいったい誰かと言うことが、問われているのです。
「僕たちの上に立てられる僕」、管理人・ミニスターです。イエスのこの例えを教会内のことだけに限定する必要はないと、わたしは考えています。政治や行政にたずさわる人たちこそ、ここで語られている管理人としての僕ではないでしょうか。「時間通り彼らに食事を与えるようにさせる」、これこそ政治の務めではないでしょうか。国民、一般市民の衣食住の生活を不安なくしっかり守り、平和に暮らさせることこそ、神が為政者に託していることなのです。
ところが、今日、わたしたちの目にしている政治家や行政にたずさわる人たちは、まさに「悪い管理人」ではないでしょうか。国民の財産をかすめ取り、横暴を極め、一般庶民の生活の困窮などには目も向けません。平和の社会を構築するのではなく、互いに憎しみあう社会へと導いているのです。悪魔的な管理人で神の僕とは言えないでしょう。やがての時には、神にしっかり裁かれることでしょう。
しかし、ここで教えられていることは決してこの世の大臣や為政者だけのことではありません。わたしたち全てのキリスト者にも管理人の役目が与えられているのです。わたしたち信徒もまた管理人・奉仕者、ミニスターです。キリスト者は、キリストを信じてこの世界の中で使命をもって生きるのです。キリスト者は世捨て人ではありません。イエスは、しもべにそれぞれ役目を与えています。わたしたちも「時間どおりに彼らに食物を与える」責任と任務、隣人に仕えるべき使命があるのです。
わたしたちは、いつも主に見られていることを自覚して生きるのです。これは、決してイエスが監視人のように見張っていることではありません。「見張られている」ところでは本当の自由はありません。イエスは、わたしたちを管理人として信じて、今の時の管理と務めとを委ねておられます。神の温かな眼差しを感じて、失敗しても赦しがある、自由に伸び伸びと日毎の奉仕に励むのです。ですから、思慮深い管理人になれるのです。イエスの再び来られるときは、わたしたちには分かりません。分からなくてもいいのです。隣人に仕えて生きる毎日の務めを責任をもって果たしていくのです。甘えや安易な生き方に流されずに、主の暖かな眼差しの中で、終わりの時に評価していただける生活をしてまいりたいものです。