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第182回 油を絶やすな

聖書=マタイ福音書25章1-6(13)節

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。……」

 

 聖書個所としたのは、マタイ福音書25章1-6節ですがお手元の聖書で13節までお読みください。イエスが弟子たちに語った信徒の生活、生き方についての教えです。わたしたちは主の再臨に対して、どのように備えして待つのかということです。特殊な生き方ではありません。灯を持って待つことです。イエスは婚礼の例えを語ります。ユダヤの婚礼は夕刻から始まります。その時に、花嫁の女友だちが花婿を出迎えて花嫁の家に案内します。これが例え話の中に出てくる10人のおとめです。この例えには花嫁は登場しませんが、10人のおとめは花嫁と共に待つのです。花嫁とその女友だちは一心同体で花婿の到来を待つのです。

 10人のおとめはキリスト者を表しています。キリスト者は「灯火」、ランプを持つ人です。信仰者はキリストの光によって明るく照らされて生きるのです。迷うことなく歩めるのは道の光であるキリストがおられるからです。キリストの光に照らされて、わたしたちもまた光になるのです。「あなたがたは世の光である。…あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(マタイ福音書5:14-16)と、イエスは語りました。

 10人のおとめは「それぞれともし火を持って、花婿を迎えに出ていく」と語られています。ただ待つのではありません。務め、使命があります。花婿を出迎える務めです。わたしたちの人生は意味のない、無計画なものではありません。人生の目的は、再び来たるキリストを迎えるための生活です。わたしたちはこの方を迎えて喜びの婚宴に連なるのです。

 ところが「花婿の来るのが遅れ」ました。花嫁の苦しみ、友人として出迎える人たちのイライラが分かります。到着の遅れとは、神のタイムスケジュールに支障があったのか、神の計画に問題が起こったのか。実はこれも神の深いご計画の中にあるのです。なぜ、花婿の到着が遅れているのか。それは待つ者の務めの真実が試されるためです。

 10人のおとめのうち、5人は愚かで5人は賢かったと言われます。この区別は信者、未信者の区別ではありません。いずれも花嫁の友、花婿を迎えるために灯火を持つ使命を与えられているキリスト者です。何が10人のおとめを分けたのでしょう。10人とも「それぞれともし火を持って」いました。平等です。花婿の来るのが遅れたのも平等です。彼女たちが居眠りしたのも同じです。イエスは彼女たちの居眠りを叱っていません。「待つ」ことは緊張し続けることではありません。わたしたちが弱く休みも必要です。休息の必要を認めて下さいます。

 何が、おとめたちを分けたのでしょう。予備の油を持っていたか、否かの違いです。彼女たちが手にしていたのは携帯用の小さなランプです。手のひらを窪めた程度の量の油しか入りません。予備の油を持たなければ長持ちしません。「賢さ」とは予備の油壺を用意していたことです。「愚か」と言われた人たちは待ち続けるだけの油の用意を怠ったことです。花婿が遅れることはないと思い込み、わずかな油でも足りると思った。誤算、見通しを誤ったのです。あるいは足りなくなったら誰かに貸してもらえると思っていたかも知れません。甘えです。信仰についての厳しさを欠いていると言えます。

 この大切な「油」とは何でしょう。居眠りしても、それさえ備えておけば合格と言われる「油」とは何でしょう。ある人は信仰だ、と言います。信仰こそ他人に分けることの出来ない救いに与かる唯一の条件です。ある人は祈りであると言います。祈りこそ、神を待つ条件であると言うことも出来ます。わたしは、これらいずれもが関係していると思います。

 聖書では「油」は神の霊、聖霊を表しています。聖霊こそ、信仰生活を内側から生かす力です。火を灯す道具だてが整っていても油がないと何にもなりません。外面的な事柄が整っていても聖霊のないところでは火を灯すことは出来ません。洗礼を受けてキリスト者らしい形を整えても、聖霊に満たされなくては愚かなおとめとなってしまいます。愚かなおとめたちも信仰者ですから、最初から聖霊の働きが無かったわけではありません。信仰が与えられていました。ところが油断したのです。継続の務めを疎かにしたのです。

 必要なことは、いつも神の霊に満たされるように祈り求めることです。神の霊は各自が祈りによっていただくべきものです。人から分けてもらうことは出来ません。譲りたくても譲り渡すことが出来ない、それが神の霊です。これなしには信仰的に生きていけないもの、それが神の霊です。イエスにお会いする時まで、この油を一人ひとり保持しておかねばなりません。求めることの出来る昼の間に聖霊の油を求めておかねばならないのです。