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第184回 小さな愛の働きの意味

聖書=マタイ福音書25章31-36節(46節)

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』」

 

 聖書は、マタイ福音書25章31-36節としましたが、皆さまのお手元の聖書で46節までお読みください。この箇所は、イエスの語った終わりの時の審きの基準です。使徒信条で「(主は)かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と告白します。終末において再臨のイエスはすべての者を審判します。

 では、何を基準にして、再臨のイエスはわたしたちを審くのでしょうか。財力でしょうか。立派な業績でしょうか。社会的な貢献度でしょうか。秋になると文化勲章や何とか褒章のようなものが新聞・テレビを賑わします。けれども、それらは人間社会の中での評価に過ぎません。

 ここで語られるのは、人間の評価ではなく、神の前で価値ありとされることです。もし、社会的な業績や貢献度ということを人を計る基準にすれば、能力のない人、能力があってもそれを育てる機会に恵まれなかった人、生涯を病床で過ごした人、いろいろな障害を持つ人などは、全く無視されてしまうことになります。これに対して、イエスは、神のみ前で価値があるのは愛の働きであると言われたのです。

 「人の子は……その栄光の座に着く」と言われます。これが終末です。そこにおいて最後の審判がなされます。神の元にある「命の書」が開かれ、人間の全ての営みが審かれます。これが無ければ歴史は空しいものになります。力の強い者が勝ち、弱い者が永遠に泣かされたままで終わります。聖書は、イエスの言葉にあるように世の終わりに審判があると記します。わたしたちは、この神の評価を目当てに生きるのです。

 審きの対象は「すべての国の民」です。キリスト者であるか、どうか、ではありません。この審きは裁判ではありません。神の目で審判されて分けられることを意味します。羊飼いが羊と山羊とを分けるように「分ける」のだと言われます。では、何を根拠に分けるのでしょうか。

 人の子と言われるイエスが審き主で「王」と呼ばれます。王は、右に分けられた人々に語ります。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と。

 このイエスの言葉から3つのことを学ぶことができます。1つは、イエスが人の生涯を計る基準はただ一つ、隣人に対する具体的な愛の業に生きたかどうか、です。愛は、抽象ではなく、心から出て具体的に人を生かすのです。どんな人にも可能ではないでしょうか。才能や能力、学歴などには関係ありません。隣人と共に生きる心が与えられていれば愛の働きは可能なのです。「まばたき」1つで、人を生かすことが出来ます。

 2つは、その愛の業は大きく人目につくものではないことです。イエスの例えの中で、右に選ばれた人たちは自分のしたことについて無知でさえありました。自分のなした愛の業など忘れてしまっています。自覚されていません。鳴り物入りで行う慈善行為や人に見せびらかせる献金のようなものではない。渇いている人に水を差し出し、裸の人に着せ、苦しんでいる人を慰め、病人を見舞う、隣人へのごく小さな働きが価値ありとして数えられるのです。困っている隣人のためにソッと差し出す助けの手、当たり前のことでも生きた愛がなければ出来ないことです。

 3つは、日常の小さな愛の業を通して、人はイエスに出会うのです。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。渇く者、飢える者、貧しい者、病む者たちを、イエスは「最も小さい者」と呼び、彼らにしたのは「わたしにしてくれた」と言います。イエスは、病み、苦しむ者を自分と同一視しなさいました。

 わたしたちの小さな愛の働きを受け止めてくださるのはキリストです。わたしたちは隣人と共に生きます。その隣人を愛する働きという一点において、わたしたちの生涯の歩みが計られるのです。イエスご自身が、わたしたちの死に至るすべての病を負って愛の奉仕として十字架を担われました。この十字架によって救いにあずかったわたしたちは、キリストに従って最も小さい者の一人に仕えて生きるのです。