· 

第185回 聖なる浪費

聖書=マタイ福音書26章6-13節

さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

 

 一人の女性が食事の席でイエスの頭から全身に香油をなみなみと注ぎかけた出来事を巡っての事柄が記されています。マタイ福音書だけでなく、マルコ福音書、ヨハネ福音書にも記されている大事な出来事です。この女性について、マタイでは「一人の女」と記すだけですが、ヨハネは「マグダラのマリア」と記します。「高価な香油」も、マルコやヨハネでは「純粋で非常に高価なナルドの香油一リトラ」と明記します。この女性の行為について、ヨハネは「イエスの足に塗り、自分の髮でその足をぬぐった」と詳細に述べています。

 マタイでは「頭に香油を注ぎかけた」と簡単に記すだけで、代わって記すのはこの女性の行為で憤慨する弟子たちとイエスとの問答です。女性がイエスに香油を注ぎかけた行為を見た弟子たちは憤慨して「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言います。ヨハネは憤慨したのはイスカリオテのユダだったと記しますが、マタイではユダだけでなく弟子たちすべてだったと記します。

 弟子たちの憤慨に対して、イエスは「なぜ、この人を困らせるのか」と言います。この問答を通して学ぶことの1つは、人の行動を安易に批判すべきではないということです。弟子たちは女性の行動を無駄遣いと判断しました。人はそれぞれ自分の考え方や理解を持って生活します。その考え方を安易に他人に押し付けてはならないのです。自分の金銭感覚、自分のライフスタイルを持つことは大切ですが、それを他人に押し付けてはなりません。

 イエスは「わたしに良いことをしてくれた」と言います。弟子たちが無駄遣いと見た女性の行為を「キリストに対するよき奉仕」と受け取ったのです。そして、そのように受け取った理由を語りました。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」と。死者を葬る際に死体に香油を注ぐ習慣がありました。イエスは、この女性はそれを先取りして行ってくれたと語ったのです。イスカリオテのユダの値積もりでは300デナリオンになるという香油です。この多額な犠牲はイエスの葬りのためであったと、イエス自身が受け止めたのです。この女性は、高価な香油を慈善にも、自分のためにも使わず、イエスのために使った。イエスの死という1回限りの特別なことのために用いたと言われたのです。

 イエスは慈善などはどうでもいいとは言いません。しかし、イエスの死に対する備えとしての価値と意味とを持っていると語ったのです。この時、この女性が十分に意識し自覚的に行っていたわけではないでしょう。自分の罪が赦された絶大な恵みに対して、長い間蓄えてきたものを心からの感謝と献身のしるしとして捧げたのです。それが結果的にイエスの葬りの備えになったのです。イエス自身がそのように受け取って下さったのです。

 弟子たちはまだイエスの死について気付いていません。ユダヤ教側では策略がなされています。しかし、弟子たちは最後の晩餐の時になっても、誰が一番偉いかと議論していたほどです。その中で、この女性の奉仕だけがイエスの死へのはなむけとなったのだと、イエスが認めたのです。この女性に象徴されるのは教会です。教会はひたすらイエスへの真実と愛の奉仕に生きるのです。その奉仕を「良いこと」として受けて下さるのは、キリストなのです。

  弟子たちは「無駄遣いだ」と言ってなじります。300デナリオンは、労働者一年分の賃金ですから、弟子たちの非難はもっともなようです。それを一瞬のうちに浪費してしまった。もったいない。人に施したり、蓄えておく方がはるかに有効ではないか。合理的な主張です。

 しかし、信仰に基づく生き方は人間的な計算や合理性を超えるのです。皆さんが日曜日、教会に来ないで働いたとします。1日1万円として1年52週で仮定すると、年間52万円の損をして教会に来ている。これだけのお金があればもっと豊かに暮らせるかもしれない、貧しい人に施せるかもしれない。ところが、わたしたちは日曜日に仕事を止めて教会に来ています。この女性がイエスに捧げたのと同じ事をしているのです。人間的には無駄遣い、浪費としか映らない。これは「聖なる浪費」と言っていいでしょう。

 イエスは「この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語られる」と言います。聖書では「記念」という言葉は重要な意味を持っています。聖餐式で「わたしの記念として」と語ります。ある歴史的な出来事があり、それを覚えるだけにとどまらず、その事柄が継続していく時に「記念」という言葉が用いられます。この女性の奉仕の業は一回限りでなく継続していくのです。福音が伝えられるところで同じことが起こっていく。イエスはそう言われたのです。この女性が行った同じ意味の出来事が福音が伝えられる所では継続的に起こるのです。