聖書=マタイ福音書26章47-54節
イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」
イスカリオテのユダが捕り手の者たちと共にイエスに近づいて「先生、こんばんは」と言って接吻をしました。この時代、接吻は親しい間柄での挨拶です。これに対して、イエスは「友よ、しようとしていることをするがよい」と答えます。同じ状況を描くルカ福音書では「友よ」と言う言葉はありません。マタイ福音書では、「友よ」と応えています。「友よ」とは、事態に対するイエスの無知を示す言葉ではありません。ユダの後ろには捕り手が剣や棍棒を持って来ています。一目見たらユダの裏切りが分かります。しかし、イエスは「友よ」と呼ぶのです。
彼の裏切りを知りながら「友よ」と呼ぶ。この一言に、イエスの揺るぎない意志が示されているのです。ペトロの失敗を見越したイエスが「あなたのために祈る」と言ったように、ユダに対しても自身の決意を示しているのです。ユダがどうであろうが、イエスはユダに対して親しい友であり続けるという決意です。言外に「ユダよ、わたしはあなたの友だ。友であり続ける。わたしの元に戻って来い」と語っているのです。人が、教会を去り、信仰を捨てようとする時にも、イエスは「友よ」と呼んで、その立ち帰りを待っていてくださいます。イエスの揺るぎない意志によってわたしたちの救いがあるのです。
次に、「イエスと一緒にいた者の一人が」と記されています。ヨハネ福音書では、それがペトロであることを明記しています。ペトロは、持っていた剣を抜いて大祭司の手下の耳を切り落とした。これは4つの福音書が共に記す大きな出来事です。この時、イエスは「剣をさやに納めなさい」と命じ、さらに「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と語られました。
このイエスの言葉は、どのような意味を持っているのでしょう。ここで剣を取って切り付けているのはペトロ一人ですが、イエスは「剣を取る者は皆」と複数形で言われています。ペトロ一人に語った言葉ではなく、剣を取る多くの人たち、「皆」すべての人に対して語られた言葉と受け止めねばなりません。キリスト者であろうとなかろうと、剣・武器によっては何の解決もありえないと語ろうとしているのです。
イエスが、このように語り、弟子たちに剣を納めさせ、さらにその手下の耳をいやしたのは、剣の行使に対する嫌悪と言うだけでなく、もっと大事にことがあるからです。剣で大祭司の手下に切り付けたことで、弟子たちも逮捕され、イエスと一緒にユダヤ当局への反逆罪で処分されることを避けるためです。ペトロの勇み足で、今までイエスが準備し整えてきた十字架への道が台無しになってしまわないためのイエスの配慮と言ってもよいでしょう。
イエスが捕らえられる事態になると、弟子たちは自分たちで何かしなければイエスをお守りできないという思い上がり、傲慢がありました。自分が何かしなければイエスを助けられないとという考え方は、神の力に信頼しない人間の考えです。もし、コロナ禍の中で、自分たちの力で教会を守らなければいけないと考えるとしたら、人間の思い上がりと言ってよいでしょう。それは神のみ心を無にしてしまうことになるのです。
最後に、イエスの態度です。危機に瀕した時、人の本当の姿が現れます。弟子に裏切られ、捕らえられ、死が待っています。普通なら逃げようとし抵抗するでしょう。ペトロの行動にそれが表れています。しかし、イエスは歯向かうことをせず、捕らえられていきます。「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである」と言いました。どの預言者の、どの言葉が成就したのかは語られていません。
イエスの胸中にあったのは、イザヤ書53章を中心とした苦難を受けるメシアの姿ではないでしょうか。イエスが捕らえられ、苦しみを受け、十字架を担うのは、父なる神の意志でした。旧約には、苦難を受けるメシア像が繰り返し記されています。イエスは、その預言を実現するのだという自覚を深く持っていました。ペトロは、イエスを捕らえさせまいと剣で阻止しようとしました。イエスは逃げようとすれば逃げられたでしょう。しかし、イエスが逮捕されたのは、イエス自身の預言の言葉への自覚的な服従であったのです。