· 

第200回 民の声は神の声ではない

聖書=マタイ福音書27章20-26節

しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

 

 イーロン・マスクさんがツイッター社のCEOの進退を決める投票をツイッターで呼びかけ、「民衆の声は神の声」と語りました。過半数が辞任に賛成したようです。さぞ、困っているでしょう。朝日新聞に「天声人語」というコラムがあります。中国の古典に由来し「天に声あり、人をして語らしむ」と言う意味と言われています。いずれにしても、民衆の声の中に神意を読み取ろうとしているのでしょう。民主主義の原点のような言葉です。

 しかし実は、民衆の声は必ずしも神の声ではありません。ヒットラーも民主的な選挙で出てきました。トランプさんも選挙で選ばれました。日本の安倍政権や自民党政権も一応民主的な選挙を経ています。しかし、民衆の声は必ずしも正義でも真理でもなく民衆を救済するものでもありません。むしろ、逆に結果的に民衆自身を傷つけてしまうこともあるのです。この事実が、イエスの十字架の出来事においてはっきり示されているのです。

 裁判官である総督ピラトは、イエスの無罪であること、イエスが訴えられたのは「妬みのため」と分かりながらも、自己の良心に従って行動しえない優柔不断な人でした。このため、自分の持つ恩赦の権能を用いてその場しのぎを図ります。ピラトは「バラバ・イエスという評判の囚人」と「メシアと言われるイエス」の「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と、法廷を取り囲む群衆に問うたのです。

 すると、祭司長や長老たちにそそのかされた群衆は声を大にして一斉に「バラバを」と叫び出します。民衆の大合唱です。民衆は評判の囚人・強盗バラバを選んでしまった。この結果に、ピラトも驚いたでしょう。さらに、ピラトは「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と、群衆に指図を求めるような愚かなことをしてしまいます。群衆は祭司長や長老たちにあおられて異口同音に「十字架につけろ」と大合唱します。ピラトは困惑し、「(イエスは)いったいどんな悪事を働いたというのか」と言いますが、群衆はもう止まりません。ますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けます。

 ピラトにも手が付けられなくなりました。時の勢いとはこういうものです。ピラトはイエスの無罪を分かりながらも、時の勢いに抵抗できません。元々、優柔不断の男です。時の流れに身を任せます。「ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て」判断しました。暴動になったら総督の失政を問われます。それを避けるため、群衆を満足させようとして、イエスを十字架に渡す決断をします。水で手を洗って「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」と言います。最後まで責任を取ろうとしません。

 勝利した群衆は「その血の責任は、我々と子孫にある」と応えます。「そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した」のです。こうしてピラトは良心の声に従って裁判すべき最も大事な時に、時の勢いである群衆の声に聞き従ったのです。

 この個所で「ユダヤ人の責任」を論じることも出来ますが、それは大きな課題ではありません。最も大き責任はピラトの裁判官としての失敗です。「十字架につけるために引き渡した」最終責任者はピラトです。イエスの無罪を分かりながらも、しっかりした判断をくださずに、取り巻く群衆の歓心を買うことをしてしまったのです。多くの政治家は後になって「わたしは本心では反対だった。内心では違っていた」と語りますが、それは無責任で何の言い訳にもなりません。

 ここに示されているのは「十字架につけろ」と叫ぶ「群衆」の無責任な叫びです。祭司長、長老たちにあおられ、そそのかされて、イエスを「十字架につけよ」と大合唱します。政治家が民衆の声に従うことは、一見、民主的に見えますが、決して真の民主主義ではありません。ポピュリズムにあおられた結果で、群衆や民衆は決して責任を取りません。民衆の大合唱は決して神の声ではなく、危険な闇からの声もあるのです。

 今日、このような意図的に扇動された大衆の声が大きな力、うねりとなって、世界のいろいろなところで、政治を動かし、政治を歪めています。日本の政治の世界も例外ではありません。日本会議や旧統一協会のような闇の力が支配しています。形式的には民主主義政治の形を採っていますが、指導者に扇動され、目前の利益につられ、そそのかされた群衆の声が大きな流れとなって破局へと向かっているのではないでしょうか。