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第202回 十字架を担う人

聖書=マタイ福音書27章32節

兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。

 

 短い1節だけですが大事な意味を持つところですので、省略することなく、この個所からお話しさせていただきます。十字架で処刑される犯罪人は、自分の付けられる十字架を担がされ、裁判のなされた総督官邸から処刑場のゴルゴダの丘まで500㍍ほどの道を歩かされます。

 この道行きが「ヴィア・ドロローサ」(悲しみの道)と呼ばれて、今日、多くの観光客・巡礼者が模型の十字架を担いで歩み、苦難を偲んでいます。しかし、これらはイエスの現実と全く違っています。イエスはこの時、極度に疲労困憊していました。前夜からの休むことのない2度の裁判、引き回し、繰り返される激しい鞭打ち、殴打、侮蔑と嘲りなどによって、精神的にも肉体的にも疲労の極に達していたと言っていいでしょう。

 ローマ軍の兵士たちに強制されて十字架を背負ったイエスは、総督官邸から道路に出てまもなくどうしようもない事態になってしまいました。倒れ伏してしまったのです。予定通りの時間では処刑場まで行けそうもありません。そこで、ローマ軍の兵士たちは道を歩いていた人を強制徴用したのです。「シモンという名前のキレネ人」でした。キレネとは今日、クレネと呼ばれ、地中海に面したアフリカ大陸の北岸にある街です。シモンはユダヤ教に改宗したアフリカの人で、この時、エルサレム神殿へ巡礼に来ていたのでしょう。

 突然降って湧いた災難です。しかし、ローマ軍の兵士たちには逆らえません。重い十字架を「無理に担がせ」られました。無理矢理、強引にです。シモンは強制されてイエスの担うべき十字架を背負って、イエスの跡に従い、ゴルゴダの丘まで運んだのです。そのゴルゴダの丘で、シモンは自分が担った十字架に付けられたイエスの姿を一部始終目撃したでしょう。後に、彼はイエスを信じる者へと変えられ、彼の家族も信徒になったようです。

 ここで、クリストフォロス伝説について記すこととします。伝説として聴いてください。「クリストフォロス」とは「キリストを担う人」という意味です。彼は大きな男で川渡しの人足をしていました。橋がないところで人を担いで向こう岸に渡す仕事です。大きな嵐で増水し、川は大水で溢れ、川止めになっています。そこへ小さな子どもが来て「向こう岸に運んでほしい」と頼みました。ところが川は溢れています。誰もが無理だと断ります。しかし、子どもは向こう岸に渡らねばならないと懇願します。そこで、彼は仕方なく引き受け、この子どもを担いで嵐の川を渡り始めました。

 はじめは軽々と担いでいた子どもが、しだいに重く感じ始めました。重くなり、流れの中で足を取られ、川底にのめり込みそうです。今まで背負ったどんな人よりも重く感じた。世界を担うような重さです。「どうしたのだ、この子はいったい誰だ」。そう思って自分の担いでいる背中の子を見上げると、なんとイエス様でした。彼は知らずにイエス様をお乗せしていたのです。そう分かると、彼は嬉しくなりました。不思議なことに、その時から背中に負った子どもはどんどん軽くなり、無事に嵐の川を渡りきって向こう岸にたどり着くことが出来た、という話です。担った子に担われたと感じたのです。

 彼の名が最初から「クリストフォロス」(キリストを担う人)ではなかったでしょう。3世紀頃の無名の川人足にちなんで、この物語が語られてきたのです。「クリストファー」とも呼ばれています。彼は、はじめは不承不承、強制されて、イエスを担いました。人生の嵐の中で沈みそうになります。ところが、担ったはずのイエスに担われて人生の旅路を全うすることが出来たのです。キリストを担うことはキリストに担われるのです。

 ここで、キレネ人シモンに戻ります。クリストフォロス伝説の原型がここにあります。シモンは強制されて仕方なく、イエスの十字架を担って、イエスの跡に続きました。恥ずかしく、重い荷であったでしょう。何で、こんな目に遭わされるのか、不当だ、不条理だと思ったでしょう。しかし、イエスの十字架を担うことによって、やがて十字架のイエスに担われている自分の姿に気付いたのではないでしょうか。

 キリスト者とは重荷を担う人です。普通一般の人としての重荷があります。徳川家康は「人生は重き荷を負うて山路を歩く如き」と言ったそうです。誰でも「生老病死」という人の生きる悩みを担わねばなりません。キリスト者は、加えてキリスト者特有の悩みと苦しみを担うことになります。信仰ゆえに他の人に理解されがたい非難や迫害、不当な苦しみです。嵐の中で生活をしなければなりません。しかし、その信仰生活を担ってくださるのはキリストご自身なのです。

 イエスは、こう言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ福音書11:28-30)。