聖書=マタイ福音書27章35-44節
彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
ここには十字架につけられたイエスの姿が記されています。兵士たちはイエスを十字架に釘付けます。マタイ福音書は、十字架に付けられる場面を詳細には描きません。イエスの十字架処刑の場面は画家たちの絵心を誘い、今にも釘付ける音が聞こえてくるようにリアルに描くものもあります。両手首に釘を打たれ、足にも釘が打たれます。麻酔もなしで気絶するほどの痛みを味わい、血が流れ続けています。イエスはこの苦しみに耐え続けます。どの福音書も、これらの情景を細かくは描きません。どんなに精巧に描いても、イエスの苦しみの深さを描き切ることは出来ないからです。ただ「十字架につける」と述べるだけです。
詳細に描かれるのは十字架に付けられたイエスをののしる人々の姿です。イエスを罵る人たちを3つに分けることができます。1つは「そこを通りかかった人々」です。偶々そこに居合わせた物見高い人々と総督官邸からついてきた「群衆」と呼ばれる人たちも加わっていました。2つは「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」と言われている人々です。この人たちはイエスを訴えた当局者です。サンヘドリンの議員でユダヤ人を正規に代表する人たちです。3つはイエスと一緒に十字架に付けられた二人の強盗です。この人たちはユダヤ社会の無法者、社会の裏側に住む人たちと言ってよいでしょう。
マタイ福音書は、これら3つのグループをもってユダヤ社会の全体と見なしています。ユダヤ人社会の上から下、表の社会も裏の社会も、すべてがイエスを罵り、イエスを見捨てたのだと語っているのです。イエスの頭の上には「これはユダヤ人の王イエスである」という捨て札が掲げられています。まさに「ユダヤ人の王」は、その民であるユダヤ人から見捨てられたのだと、マタイ福音書は告げているのです。
これらユダヤ人共通の声は「イエスよ、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」ということです。イエスが自分を神の子だと主張しているのに十字架から降りることも出来ないのか、ということです。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」。イエスの無力さへの罵りです。自分さえ救えなくて、どうして他人を救えるのかという声です。今日でも世の多くの人が持つ疑問です。神の子と言われる救い主・キリストが、何の抵抗も示さず、何の力も現すことなく、十字架で死んでしまったことに疑念を抱き、本当に救い主なのかと疑うのです。
これは大事なことです。イエスが救い主としての公生涯に入った時、荒野で悪魔の誘惑を受けました。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうか」(マタイ福音書4:2)と言われました。「神の子なら、……」というのは、悪魔の常用句です。悪魔は、荒野において救い主としての道を歩み始めようとするところで、それを阻止しようとしました。そして今、十字架にかけられたイエスに対して最後の誘惑を行っているのです。「お前が、神の子なら、十字架から降りてみろ」と。
もし、イエスが十字架から降りたら、どうなるでしょう。皆さん、真剣に考えてみて下さい。イエスは「絶大な能力を持つ人物」として、当時の人々からは拍手喝采を浴びたでしょう。しかし、罪人の救い・罪の贖いは消し飛んでしまっていたでしょう。どれだけ人気を博しても、旧約から預言されてきた受難のしもべ、「まことの救い主」ではなくなるのです。イエスは自分の名声も誇りも一切投げ捨てて、まことの救い主として静かに十字架を担い続けたのです。
イエスは、「神の子なら自分を救え」という声にもかかわらず、十字架を降りません。イエスを十字架から降ろさないのは、両手と両足を貫いている太い釘の力ではありません。イエスを十字架から降ろさないのは、罪人を愛して救う父なる神のみ心とご計画、その御心への従順と罪人を救うことをご自身の使命として引き受けたイエス自身の固い決意なのです。全人類の一切の罪を引き受け、贖うとのイエスの愛と決意が、十字架での苦痛を耐えさせているのです。この十字架を担うイエスを見て、「我が主、我が神」と信じることが、まことの信仰です。わたしたちの深い罪が赦され、神と共に生きることが出来るのは、最後まで十字架を担い続けたイエスの故であることを、いつも覚えたいものです。