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第207回 イエスの葬りを巡って

聖書=マタイ福音書27章57-60節

夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。

 

 イエスが十字架に付けられたのは金曜日の朝9時頃で、絶命したのは午後3時頃で夕刻でした。イエスの遺体が十字架から降ろされると共に早急に葬られる必要がありました。土曜日は安息日で「何の仕事もしてはならない」からです。

 イエスの男の弟子たちは逃げ去ってしまい、遺体を引き取り埋葬を担う人がいません。婦人の弟子たちも困惑したでしょう。そこに一人の人が現れました。「アリマタヤ出身の金持ちでヨセフ」でした。この人については、ルカ福音書が付け加えています。「ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった」。彼はサンヘドリン議会の一員でしたので、イエスの十字架処刑にも立ち会っていたでしょう。「この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」のです。

 総督のピラトから承認されると、ヨセフは遺体を十字架から降ろして亜麻布で包むという作業を行います。そこに、もう一人ニコデモという人物が登場し、一緒に埋葬の作業をします。ニコデモも議員の一人でした。「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包み」(ヨハネ福音書19:39-40)、アリマタヤのヨセフの所有する「まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納め」ました。

 アリマタヤのヨセフについて「この人もイエスの弟子であった」と記されています。彼がどのような経緯でイエスの弟子になったのかは全く分かりません。ひそかに弟子となっていたのです。同僚の議員たちをはばかってでしょう、公然と信仰を告白した弟子ではありません。ここに社会的身分のゆえに堂々と信仰を告白できない人間、良心的ではあっても勇気のない弱い人間の姿を見るのです。

 この人がイエスの葬りという大切な時に登場し、大事な務めを果たすのです。他の男の弟子たちは皆、逃げ去っています。このままではイエスの遺体は囚人用の墓地に投げ込まれてしまうかもしれない。この危機的状況の中で、アリマタヤのヨセフはイエスの弟子としての信仰をその行為によって表したのです。勇気を出してピラトの元に行き、遺体の引き取りを求めたのです。反ローマの政治犯として十字架で処刑された人の遺骸を引き取ることは覚悟が必要です。

 議員の地位を剥奪されるかもしれない。共犯者として捕まるかもしれない。その危険を覚悟して総督ピラトの元に出て行ったのです。隠れキリシタンのようなアリマタヤのヨセフに、この行動が出来た力の源は、どこから出たのでしょう。彼はサンヘドリンの議員の1人として、裁かれるイエス、十字架に架けられたイエスの姿と言葉をじっと見聞きしていました。このイエスの姿と言葉を聞いて隠れていることが出来なくなったのです。十字架処刑を執行した異邦人の百人隊長に「本当に、この人は神の子だった」と言わせたのと同じ力です。弱さを持つ人の心を勇気ある信仰者としたのは、イエスの十字架の力です。

 ここから学ぶことがあります。弱いクリスチャンの存在を認めることです。礼拝に出てこない、祈祷会にも出てこない、献金もしていない、と言って弱いクリスチャンを責めがちです。自分の熱心を示そうとして弱い人を責めてしまうのです。世俗の地位に恋々として富を捨て切れないアリマタヤのヨセフやニコデモなどは非難の的になります。ところが、ペトロが挫折し、多くの男の弟子が逃亡し役立たずになっていた時に、それまで隠れていた弱いアリマタヤのヨセフが、勇敢にその行為をもってイエスの弟子としての務めを果たしているのです。わたしたちは、信仰的に弱さを持つ者の存在を認めねばならないのです。彼らもまたキリストの弟子であり、交わりから除外してはならないのです。

 また、弱さを持っていたアリマタヤのヨセフを真の信仰者に造り替えたイエスの恵みの力を覚えることです。わたしたち人間は、その人が今、どのような状況であるかによって判断するのではないでしょうか。しかし、イエスの恵みが、人をどのように変えてくださるかという将来の希望によって人を見ていくことが必要です。今はまだ弱く不信仰です。今は不熱心です。けれども、イエスはこのような人を造り替えて用いてくださいます。使徒のペトロも本当にイエスに用いられるためには、挫かれてから後のことです。キリスト者は、今、現状、どうであるかによるのでなく、造り替えられる希望によって生きるのです。