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第208回 あの方は、復活なさった

聖書=マタイ福音書28章1-9節

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」……婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。

 

 今年、2023年のイースター(復活節)は4月9日です。少し早いですがマタイ福音書の学びの中で、イエスの復活の出来事を取り上げて「イースター」の恵みと喜びを味わうこととしましょう。

 イエスが十字架に付けられたのは金曜日の朝9時頃、絶命したのは午後3時過ぎでした。遺体が葬られたのは夕刻です。ルカ福音書には「安息日が始まろうとしていた」(23:54)と記されています。土曜日は安息日で「何の仕事もしてはならない」からです。

 イエス復活の出来事に際して大きく活躍するのは婦人たちです。しかし、安息日には何も出来ません。イエスの埋葬が慌ただしくなされ、埋葬儀礼など十分に出来なかったため、婦人たちには心残りがありました。香料などを用意して安息日の終わるのを待ちました。「マグダラのマリアともう一人のマリア」とあります。「もう一人のマリア」とはヤコブとヨハネとの母のマリアでしょう。彼女たちは「ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた女たち」です。週の初めの日(日曜日)の朝早く、イエスの遺体が納められた墓に急ぎました。

 彼女たちは心配していました。イエスの葬られた墓は横穴を掘ったもので、入口には大きな石が立てかけられて、女性の力で動かせるものではありません。実は直前の深夜に大きな地震がありました。「地震が起こり、岩が裂け」るほどのものでした。マタイ福音書は「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」と記しています。神の直接的な介入です。「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」。

 天使は婦人たちに告知します。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と。イエス誕生の時、天使がヨセフとマリアに告知したように、婦人たちにイエスの復活を告知しました。イエスは繰り返し弟子たちに復活を予告していましたが、婦人たちを含めて弟子たちはイエスの復活など信じられず、イエスの遺体を求めてきたのです。

 天使は「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」と語りかけます。この言葉に導かれて、婦人たちは急いでイエスの遺体が置かれていた場所を確認します。そこに見たのは「空の墓」です。イエスの遺体を巻いた亜麻布が残っているだけです。イエスの遺体はどこにもありません。しかし、婦人たちは天使の「復活した」との告知に半信半疑だったのではないでしょうか。

 婦人たちは、天使が命じたとおりに弟子たちに告げに走り出します。走り出した途端に、彼女たちはイエスにお目にかかったのです。「イエスが行く手に立って」いました。婦人たちは驚いたでしょう。驚く女性たちに、生きたイエスが「おはよう」と言います。「婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」と記されています。「おはよう」は誤訳とは言えませんが、口語訳・文語訳は「平安あれ」です。むしろ「喜べ、喜びなさい」と訳すべきです。復活の出来事は喜びです。恐怖や懐疑、不信を吹き払い、生ける主にお目にかかった喜びがすべてを包むのです。

 十字架で死んだイエスは、今、生きておられます。イエスが復活したという出来事は、復活のイエスを見た人たちの目撃証言によります。歴史の出来事は自然科学のように追実験ができません。目撃した人たちの証言に依存します。天使の告知に半信半疑だった婦人たちは、生けるイエスに出会い、イエスを見、イエスの足に触れ、ひれ伏して喜んだのです。

 聖書は、復活の証言を婦人たちの独占としません。むしろ、当時の婦人たちは社会的に軽視され、裁判の際の証人としてさえも認められませんでした。そこで、パウロはこの後に続く男の弟子たちの証言を強調しています。「ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました」(Ⅰコリント15:5-6)と。

 彼女たちの喜びは愛する主にお目にかかったという喜びでした。しかし、イエスが「喜べ」と言われたのは、単なる生前の親しい交わりの回復ではありませんでした。人の死が克服され、死に勝利した喜びです。死が破られたのです。アダムの堕罪によってすべての人が死に覆われました。その死が、イエスの復活によって打ち破られたのです。死に勝利した方がおられます。イエス・キリストです。このキリストに結ばれてわたしたちも死に勝利するのです。根源的な喜びがここにあります。