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第217回 癒やしを求める祈り

聖書=詩編6編1-5節

【指揮者によって。伴奏付き。第八調。賛歌。ダビデの詩。】

主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。主よ、憐れんでください。わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。

 

 今回は、旧約聖書・詩編第6編1-5節から神のみ言葉を聴いてまいります。この詩編第6編は一般に「嘆きの歌」と言われています。その理由は、この詩の作者自身が「わたしは嘆き悲しんでいます」、「わたしの魂は恐れおののいています」と記しているからです。詩の作者は深い嘆きの中におかれているのです。

 では、この詩の作者は何を嘆いているのでしょうか。それは、何の病気かは分かりませんが、重い病で苦しみ、死の床にあり、死を予期しているからです。病むことは、わたしたち人間にとって必然とも言えることです。誰でも病み、痛み、苦しむのであります。仏教の言葉ですが「四苦」ということが言われています。「生老病死」という言葉です。その言葉のとおり、病み、老いることはすべての人の歩みの中にある「苦」なのです。詩の作者は病の苦しみの中から神に向かって祈り、神に向かって叫んでいるのです。

 この詩を読むかぎり、作者の病気の原因や病名については記されていません。自分を苦しめている病の状況がどのようなものであるか、細かくは記しません。しかし、詩の作者は、この自分を苦しめている病が神からの懲らしめであると受け止めています。これが、この詩の特色です。旧約聖書の1つの特徴は、善し悪し共にすべては、神から来るという信仰です。すべてのことが神に起源しているという信仰です。今、自分を苦しめているこの病も神からやって来た。神の与えた試練だと言う理解です。この病を送ってきたのは神だという理解です。

 しかし、この詩の作者は、それをしっかり受け止めた上で、神は同時に「病を癒やすお方」でもあると信じているのです。苦しみや試練を与える神にそっぽを向かないのです。これも旧約の信仰の特色です。神からもたらされた病は、神だけが癒やすことが出来るのだと信じ、神に癒やしを訴えているのです。今日の医学や医療の考え方とは少し違いますが、人に病をもたらす神こそが、同時に人の病を本当に癒やすお方であると言う信仰なのであります。

 この信仰のゆえに、この詩の作者は神に真剣に祈る、神にすがりつく、と言っていいでしょう。神よ、あなただけがわたしを癒やしてくださるただ一人のお方です、と。「主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう」。神の癒やしを切望しています。

 「主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください」と、嘆き訴えます。「立ち帰り」とは、わたしを見過ごさないでくださいということです。「神よ、わたしのところに戻ってきて、わたしに目を留めてください」という、神の注目を求める言葉です。わたしに目を留めてください、わたしを見てください、という哀願です。神は「慈しみの神」です。神の慈愛の目でわたしの苦しみと痛みをご覧になってくださいと、真剣に求めているのです。

 この詩の作者の真剣な祈りは聴かれたでしょうか。今回は、時間の都合で5節までしか読みませんでしたが、この詩の終わり部分、9-10節でこのように歌われているのです。お読みします。「主はわたしの泣く声を聞き、主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受け入れてくださる」。

 祈りが聴かれて具体的にどのように癒やされたかのかは記されていません。しかし、この詩の作者は明らかに神への信頼を取り戻しています。詩人の嘆き訴えの声を聞き、癒やしを与えてくださったのです。神はわたしたちの嘆きの声を聴いてくださるお方です。わたしたちの祈りを受け入れてくださるお方です。詩の作者は、癒やされた恵みを確信しているのです。わたしたちも、神こそが、わたしを癒してくださるお方であるとの確信に導かれてまいりましょう。