聖書=詩編22編1-6節
【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
わたしの神よ、わたしの神よ。なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ。昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。だがあなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
今回は、旧約聖書・詩編22編1-6節から神の言葉に聞いてまいりましょう。この詩編は「メシア詩編」と言われています。十字架につけられたイエスが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ福音書27:46)と叫びました。その言葉がこの詩編の言葉と重なるのです。このため、「メシア受難の詩編」と呼ばれます。
しかし、ここではメシア詩編としてではなく、1人の信仰者の祈りの言葉として学びたいと思います。この詩の背後にあるのは激しい苦難です。信仰者としての歩みは決して平坦なものではありません。いつも感謝し、神を賛美できる生活ではありません。
わたしたちは、クリスチャンであってもなくても、苦しいことに直面すると「神も仏もあるものか」とつぶやきます。困難や迫害の中で、神から見捨てられたかのような感じを持つことがあります。失望・落胆して、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのか」という感じを持つのではないでしょうか。
神から見捨てられるということは、人間にとって根源的な孤独と言っていいでしょう。人生に行き詰まり、家族から放り出され、友からも見捨てられることもあります。しかしそれでも、神はわたしを見捨てない。神だけはわたしの味方だ。これが普通のことでしょう。しかし今、この詩人は、その神からも見捨てられたと実感しているのです。普通ではないことが起こっている。これが根源的孤独ということです。だれも自分の孤独を分かってくれない。わたしたちも、このような孤独を感じることがあるのではないでしょうか。イエスもこのような孤独を十字架で味わったのです
この時に、この詩の作者はどうしたでしょう。神を呪って死んでやろうと考えたでしょうか。否です。この詩の作者は、かえって神にまとわりつくのです。「神に信頼する」という単純な言葉では表せないものがあります。自分を見捨てるような神に、なおも「まとわりつく」のです。自分を見捨てているような神に向かって、「わたしの神よ、わたしの神よ」と、激しく呼びかけているのです。
神以外に助けを頼めるものがいない。この詩の作者にとって、その神信頼の根拠は先祖の歴史です。「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た」。自分たちの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブ、みな困難に遭った。目の前に見えていた神の御顔を見失うような体験をしたのです。しかし、その時に、神は先祖たちを顧みてくださった。この歴史的経験を梃子にして、この詩の作者はなおも神に望みをかけるのです。神は助けてくださる。神は自分たちを決して見捨てることはない、と。
神よ、あなたはアブラハムを選び、守り抜いた神ではないか。イサクを支え続けた神ではないか。ヤコブを立ち直させた神ではないか。神はわたしを選び、わたしを愛すると言ってくださった。それであるなら、あなたはわたしを助ける神だと、神にまとわりつくのです。これがこの詩の基本にある神の選びに対する信頼と言っていいでしょう。神がひとたび「わたしを愛し、わたしを選び出してくださった」。この神の選びの恵みに信頼して、神に祈り求めているのです。
ここに、わたしたちの本当の救いがあります。自分を見捨てているような神に、なお、しっかりとまとわりつくことを徹底させることです。これが本当の神信頼の姿です。苦難や災いにあっても、悲しみがあっても、何があっても、神とキリストだけに信頼してまとわりつく。神への徹底的な信頼。そこに、わたしたちの祝福と生きる力の源泉があるのです。