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第220回 主と相対しています

聖書=詩編16編7-11節

わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。

 

 今回は旧約聖書・詩篇16編の後半、7-11節からお話しさせていただきます。病床にある方は詩編を読んでいただきたいと願っています。お手元に詩編を置いて、時折、お読みくださったら大きな慰めを受けられると思います。詩編は1つ1つ独立していて、どこから読んでくださっても結構です。つまらないと思うところは飛ばして、ここが良いなあ、と思うところを選んでくださって良いのです。

 この詩編16編の後半は「夜の詩編」です。詩人は「わたしの心を夜ごと諭してくださいます」と記しています。わたしたちは、朝毎の祈りのときを持っていますが、夜もまた神の前に静まるときなのです。夜は静かに一日を顧みて、神の声を聴くときです。

 この詩編の作者は、一時、非常ないのちの危機に陥ったようです。死の危険に陥ったと思われます。絶望の中をさ迷っていたようです。その作者が、神によって救い出され、神に向かって「わたしは主をたたえます」、「わたしの心は喜び、魂は躍ります」と、喜びと賛美の声をあげているのです。

 この詩の作者は、「わたしは絶えず主に相対しています」と語ります。この詩の最も大切なポイントです。「相対して」と訳された言葉、たいへん興味ある訳し方です。新改訳という別の翻訳では「主を前にしています」と訳しています。神を目の前に相対しているのです。これが、祈りの在り方です。目と目を合わすような本当に親しい交わりの関係にあると語っているのです。さらに「主は右にいまし、わたしは揺らぐことはありません」と言います。「右にいます」と言うことは、神がわたしを守る位置に居るということです。

 その結果、「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」と歌っているのです。「陰府」とは、この時代の人々が死んでから行く場所と考えていたようです。この詩の作者は、陰府の淵をさ迷うような経験をしたのではないでしょうか。肉体的にも精神的にも、死の淵をさ迷う深刻な経験をした。

 しかし、詩の作者が「あなた」と親しく呼んでいる神は、その死の淵から、陰府の中から、この詩の作者を呼び戻してくださった。回復してくださったのです。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません」。これは、この詩の作者が神と共にあること、神との深い交わり、祈りの中にいることを言い表しているのです。これが、この詩編の詩人が語る「いのちの道」なのです。神を目の前にして相対して祈ることが「いのちの道」なのです。

 この神と共に生きる「いのち」が、一筋の道としてわたしたちの前にも開かれているのです。主イエス・キリストを信じる道です。主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ福音書11:25)と言われました。主イエス・キリストを信じ、キリストと1つに結ばれて祈りを捧げるところで、わたしたちもキリストのいのちにあずかることが出来るのです。キリストとのいのちのシェアー(分与)を受けるのです。

 この永遠のいのちに回復されて、この詩編の詩人は充足しています。あれが足りない、これが足りないという嘆きでなく、人生の充足を経験した。それが結びの言葉です。「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます」。キリストに結ばれて、わたしたちの人生は充足するのです。