聖書=詩編23編1-4節
【賛歌。ダビデの詩。】
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。
今回は旧約聖書・詩編23編から神の言葉に耳を傾けてまいりましょう。わたしはこの詩編23編が大好きです。病床にある人を訪ねたとき、しばしばこの詩編を読んで祈りを捧げてきました。今回は前半の1-4節からお話しします。
この詩編は、一見すると、のどかな牧歌的な詩ではないかと感じるかもしれません。しかし、この詩の背後には激しい苦難があることを見逃してはなりません。のんびり、ゆとりある人の歌ではありません。この詩の背後には、熱い砂漠の旅路を越えてようやくオアシスにたどり着く旅人の姿、羊飼いたちが羊のために緑の草場を求めてさまよい歩く姿です。そのため、人生の旅路で苦労し傷ついている人たち、病床で苦しむ人たちが、この詩を読んで慰められるのです。
「主はわたしの羊飼いである」ということが、この詩全体を貫ぬくメッセージです。新共同訳聖書では「主は羊飼い」と始まります。大きな欠落があります。「わたし」が抜けています。翻訳ミスと言ってもいいでしょう。「主はわたしの羊飼い」です。この詩編では「わたし」が強調されています。「わたし」という言葉が多いから1回省略しろと言うことでは困る。最初の「わたし」が大事なのです。この詩編は「主とわたし」の親しい関係が全体を貫いているのです。
「主」とは、主なる神なのですが、「主イエス・キリスト」と理解していいでしょう。主イエス・キリストが「わたしの羊飼い」となってくださった。「わたし」は羊に例えられています。羊にとって羊飼いは大切な保護者です。キリストは、わたしたちのいのちを守り支える羊飼いです。キリストこそ、わたしの個人的な牧者・羊飼いとなってくださいました。わたしの祝福と力の源泉は、この親しい関係にあると言っていいのです。
キリストが、わたしという人間の世話をしてくださる羊飼いとなってくださったという関係の中で与えられる祝福は、第1に乏しいことがなく、緑の牧場、憩いの水辺に導かれるという祝福です。羊飼いとしてのキリストは、わたしたちの毎日の具体的な生活を守り支えて下さるとの祝福です。日毎の糧を与えてくたさいます。わたしたちの生活の必要を知って配慮してくださるお方です。羊飼いが、羊のために草と水を探し求め、その場に導くように、キリストはわたしたちの日常の生活を配慮しておられるのです。
第2の祝福は、わたしの「魂」を生き返らせてくださる祝福です。キリストは、わたしたちの心と霊的な生活、永遠の生をも守り支えてくださいます。今の時代は、お金万能、経済万能です。その結果、心や魂のことが忘れられ、荒れすさみ、憎悪が支配しています。
これは、世の人々だけでなく、悲しいことにキリスト者と言われる人にも及んでいます。心と魂についての無関心が至る所にあります。しかし、キリストが羊飼いとしてわたしと共にいてくださり、わたしの心と魂とを握り、活かしてくださるならば、たとえ死の蔭の谷を歩むような時にも恐れることはありません。
第3に、キリストがわたしの羊飼いという関わりの中で与えられる最大の祝福は、「わたしを正しい道に導いて」くださることです。「正しい道」とは、単なる正義ではありません。神と共に生きることが「正しい道」なのです。羊飼いは、神の羊であるわたしといつも一緒にいてくださり、羊の歩みの全てを導きます。わたしたち信仰者の歩みは苦しいことの連続です。その地上の歩みを守り導いてくださるだけではありません。
主イエスは、わたしの心と魂に安らぎを与え、神にある赦しと平安の中で、ご自身が共にいて牧者の杖をもって永遠の命へと導いてくださいます。それが「正しい道」なのです。あなたは、キリストのものだ、神と共に生きるのだと、教え諭していてくださるのです。