聖書=イザヤ書2章4-5節
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
今回は旧約聖書・イザヤ書2章から神の言葉に耳を傾けてまいります。イザヤ書2章4節の言葉は、ニューヨークの国連本部ビルの正面に刻印されてあるとのことです。付近には銃身を飴のようにクルクルねじ曲げたオブジェも飾られています。第2次世界大戦直後の人々の平和への熱い願望が読み取れます。
現在、ロシアによるウクライナへの侵攻で世界中が右往左往しています。憲法九条を持って非武装平和を国是としてきたはずの日本も、アメリカから武器を爆買いし、軍備を増強し、戦争の出来る国造りを急いでいます。国家為政者だけでなく、為政者に煽られて国民全体も右往左往しています。この間に、日本は国民の経済力も教育や福祉の力も、人権やジェンダーの課題でも世界の最低値に墜落しているのです。
上記の「剣を打ち直して鋤とし、……」という言葉を語った旧約の預言者イザヤは、紀元前8世紀に生きた人です。混乱の時代に生きました。ダビデによってなされた統一王国はすでに北イスラエルと南ユダ王国に分裂していました。北方の巨大な帝国アッシリアが、北のイスラエルを侵略し、紀元前721年北王国の首都サマリアが陥落しイスラエルはアッシリアの属州と化しています。これを見た南王国ユダの人々は上から下まで右往左往します。アッシリアに媚びを売り、エジプトに援助を求め、エジプトから軍馬や戦車を買い軍備を増強します。
当時の弱小国の採るべき道は、自国だけでは存立し得ないため、アッシリアにつくか、エジプトにつくか、それとも近隣の弱小国同士で同盟を結ぶか、でした。南王国ユダの王も指導者たちも、それぞれの思惑で走り回っていました。
この中で、イザヤは預言者として召され、彼が語ったことは徹底した非武装・中立でした。古代世界の中で、しかもアッシリアの脅威を目前にして軍備増強に走る人々の中で、イザヤの預言の言葉は決してブレませんでした。軍備に頼るな、アッシリアにもエジプトにも頼るな、神に信頼して「静かにしていなさい」と語ったのです。
「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。これは単なる非戦、不戦の勧めではありません。軍備の撤廃、軍備廃止の宣言です。軍備こそ戦争の根底にある決定的な悪なのです。恐怖のため自衛のためと称して力を蓄える。相手はますます対抗するために力を蓄えていく。軍拡競争です。競争がエスカレートし、次々に新しい武器を競い、軍拡競争は行き止まりがありません。
蓄えられた武力は出口を求めて競い始めます。軍拡は実力を見せ、実証しなければ、意味がない。軍拡の出口は必ず戦争となります。剣を蓄え、槍を蓄え、軍馬や戦車を蓄えることは備蓄だけでは終わりません。国の経済力を傾注して備蓄した以上、その剣と槍の力、戦車の力を国民の目に実証しなければならない。軍備はそれ自体、戦争への路を敷いていくのです。イザヤは、そこを見ているのです。
「剣を打ち直して鋤とする」とは、軍備のために必要とされる巨大な軍事費を民用に用いることです。教育や福祉、医療などの方面、農業・漁業・林業などの活性化、科学や芸術などへの支出へと転換することです。民が繁栄する道です。
イザヤの思想の根底にあるのは「神います」という信仰です。神がこの世界を造られ、神が支配しておられるという信仰です。人間的な武器による抑止力ではなく、神の言葉が聴かれ、神の言葉が受け止められるところで、平和への転換が起こるのだということです。ですから、「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」と呼びかけているのです。この世界を造り、この世界を支えている神の恵みの御手に委ねて歩もうではないかと呼びかけているのです。この呼びかけに応えて、わたしたちも「剣を打ち直して鋤とする」道を歩もうではありませんか。これが平和に生きる唯一の道なのです。