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第233回 神に担われる者の祝福

聖書=イザヤ書46章3-4節

わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

 

 今回は旧約聖書・イザヤ書46章3-4節からお話しします。まもなく「敬老の日」となります。わたしも81歳になり、敬老の日の対象者とされています。祝辞をいただいたり、贈り物などを頂戴して恐縮しています。

 実は聖書では単純な意味での「高齢者の祝福」ということは、あまり語られていません。と言って、イスラエルで高齢者が社会的にお荷物として排除されていたかというと、決してそんなことはありません。今日の日本社会の方が高齢者に対して冷たく敬遠しているのではないかと思っています。聖書の世界、イスラエルでは高齢者は知者として尊敬されていました。町の中で、高齢者は「長老」と呼ばれて尊敬され、その語る言葉は「知恵の言葉、箴言」とされていました。町の人々の紛争が起こると、町の門の広場で長老たちによって「裁き」がなされました。高齢者が尊敬され実際に用いられていたのです。

 上記のイザヤ書の言葉は、教会で敬老の日によく読まれる個所です。しかし、ここで語られている対象者は必ずしも高齢者だけではありません。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ」と呼びかけられます。これはバビロン捕囚によって異邦に連れ去られた人たちのことです。60年、70年にわたって異邦の地バビロンで労苦してきた人たちへのメッセージです。バビロンで生まれた若い世代の人たちも含まれています。しかし、多くは異邦の地で何十年も苦しみ、故郷喪失の痛みと悲哀を味わってきた老人が多く、これが「残りの者」と呼ばれているのです。

 第Ⅱイザヤと呼ばれる預言者は、捕囚の地の「残りの者」たちに解放を告げるのです。まもなくバビロンが倒れて、ペルシャ王キュロスによってエルサレムへの帰還が許される。この解放の希望の中で語られた祝福と労りの言葉なのです。この言葉の基底には神の愛による選びの恵みが物語られているのです。

 「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた」と語られます。彼らは、神への背信のゆえに故郷エルサレムを追われ、異邦の地バビロンへ捕囚となり辛酸をなめ尽くしました。これは神の裁きの結果でした。その異邦の地での労苦の中で、彼らは自分たちは背神の罪のゆえに神から見捨てられたのだと深刻に受け止め、悔い改めへと導かれました。生きて再び故郷エルサレムに帰ることはない、と考えていました。深い失意の中にあったのです。

 この人たちに語られた言葉です。預言者は「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた」と語ります。神は罪を罪として裁きます。しかし、神は決してイスラエルの民を見捨てません。神はイスラエルの民を「宝の民」として選びました。この選びのゆえに、あなたたちは生まれた時、母の体を出た時から、神が認知し、神が担ってきたと語られているのです。背神の民であるイスラエルを、その選びの愛ゆえに見捨てない神の恵みが語られています。

 これは決して旧約のイスラエルの民だけのことではありません。キリストを信じる者の歩みも同じです。わたしたちもこの地上の歩みの中でさまざまな労苦を経験します。その中で、わたしたちが神を見出し、神を信じたと言っていいかもしれません。しかし実は、わたしたちが母の胎に形成される先に、神が先手をもってわたしたちを認知し、多くの労苦の中でわたしたちを担い、救いへと導いてくださったのです。この神の選びの恵みを覚えたいのです。

 さらに、神は預言者を通して「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と言われるのです。「同じように」とは、神の選びの愛ゆえに、と言うことです。「老いる日」「白髪」とは、まさに高齢者を指しています。体力も衰えます。世の楽しみにも無関心になります。今まで夢見ていた故郷への帰還も虚しく思えます。

 神はこのような淋しい人生の末路であっても「わたしが背負って行こう」と言われるのです。神は決して人を放り出すお方ではありません。選びの愛によって召し出した者を、神は徹底的に「担い」ます。人が自己の存在を意識するよりはるか先、母の胎にある時から、現在に至るまで、そして年老いて死にゆくまで、いや永遠の神の国に生きる時まで、わたしたちの生涯は神によって担われているのです。神による永遠保持の約束の言葉です。

 「救い出す」とは、具体的にはまもなく始まる捕囚からの解放を指しています。この捕囚からの解放は、神の恵みによるキリストの十字架の贖いも意味しています。キリストの到来によって、わたしたちのすべての罪、咎が贖われ、赦され、永遠の命へと移されるのです。年老いた者だけでなく、キリストによって担われた者はすべて永遠の御国へと完全に担われるのです。わたしたちの真の希望がここにあります。