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第234回 捕囚から帰還の喜び

聖書=詩編85編1-4節

【指揮者によって。コラの子の詩。賛歌。】

主よ、あなたは御自分の地をお望みになり、ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。御自分の民の罪を赦し、彼らの咎をすべて覆ってくださいました。怒りをことごとく取り去り、激しい憤りを静められました。

 

 今回は旧約聖書・詩編85編の前半、1-4節から神のみ言葉を学んで参ります。この詩編85編は全編にわたって、神の解放の恵みに対する感謝と喜びが基調になっています。

 旧約の民イスラエルは歴史の中で「神の解放」を大きく2回経験したと言っていいでしょう。1回目は「出エジプト」の解放の恵みです。神による救済の恵みのすべてが出エジプトの出来事に凝縮していると言っていいでしょう。イスラエルの民は、出エジプトの恵みに感謝して「十戒の民」として主との契約に従って生きるべきでした。

 ところが、イスラエルの民はカナン入国後、「十戒の民」として生きようとはしませんでした。多神教の異教徒たちが形成する近隣諸国の歩みと軌を一にしたのです。「普通の国」になったのです。生けるまことの神から離れ、偶像と財力を頼みとし、軍事力により頼んで国を営みました。背神の国となったのです。それに対して、神は繰り返し預言者たちを送り、イスラエルとユダの国々に「立ち戻り」を警告しましたが聞く耳を持ちませんでした。

 その結果、神はイスラエルとユダに対して激しく怒り、国を滅ぼしたと言っていいでしょう。神は、アッシリア帝国を用いて北イスラエル王国を滅ぼしました。紀元前722年のことです。民の多くはアッシリア捕囚となり、世界各地に散らされました。少し遅れて南王国ユダは紀元前586年、バビロニア帝国によって滅ぼされ、多くの民はバビロンに捕らえ移されて捕囚とされました。

 アッシリア捕囚とバビロン捕囚とは神の裁きでした。しかし、神は神の民を滅ぼし尽くすことをせず、深い慈愛によって回復してくださいました。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」(イザヤ書42:3)と言われて、捕囚の民を苦しみから解放してくださったのです。これが、第2の「神の解放」です。

 詩編85編は、第2回目の神の解放の喜びを歌っているのです。神がイスラエルの民を捕囚の地から解放し、故郷の地へ帰還を許してくださった恵みの出来事を感謝しながら歌ったものです。詩の内容から、この詩が作られたのは帰還後の第2神殿建設直前のハガイ、ゼカリヤの時代(紀元前520年頃)のものと推測されています。解放の恵みを実感しての歌なのです。

 イスラエルの民は、苦しい捕囚の惨めさから解放された。このことに対する感謝が祈りの言葉の中で語られます。この帰還は神の恵みです。「主よ、あなたは御自分の地をお望みになり、ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました」。神が意志し、神が連れ帰られた。主導権は神にあります。

 「ヤコブの捕われ人」と言います。ヤコブの名は契約に関係します。神がアブラハム、イサク、ヤコブに約束された恵みの契約のゆえに、その契約を思い起こして捕囚から解放されたのです。神は「御自分の民の罪を」赦してくださった。「赦し」、「覆って」という2重の言葉で赦しの恵みが強調されています。「覆う」とは、ベールで覆いを掛けることで、もう神は罪を見ないという神の決意です。

 詩編の詩人は、この神の赦しの恵みの出来事をしっかり見つめて受け止めているのです。自分たちの過去の歴史の中での神への背信を、「罪」と「咎」として見つめ直します。神から離れた結果、神の怒りと呪いを受けた。それが捕囚であった。しかし今、その神の怒りと呪いとを、神ご自身が「ことごとく取り除いてくださった」のです。

 神の側の決断、神の態度変更です。罪に対する神の激しい怒り、憤りを、神ご自身が和らげてくださったのです。この神の決断こそ、契約の民であるヤコブに対する憐れみです。神の怒りが取り除かれ、激しい憤りが静められたと語られています。これが赦しの根拠であり、このゆえに帰還が適えられたのです。わたしたちも、イエス・キリストの十字架にあって、この同じ赦しの恵みの中に生かされているのです。