聖書=詩編96編1-3節
新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。国々に主の栄光を語り伝えよ。諸国の民にその驚くべき御業を。
今回は詩編96編の冒頭部分を取り上げます。詩編96編は「ヤハウェの王の即位詩編」の一つと言われています。主なる神が来臨して「王となる」ことを告知するメシアの賛歌です。70人訳では「捕囚後、宮が建てられた時」と序文が付いています。バビロン捕囚から帰国して後、神殿を再建し、巡礼者を神殿礼拝へと招くと共に、さらに多くの人々に神のみ業と栄光を諸国に伝えるように促す詩です。詩の作者は神殿に奉仕する祭司の一人かもしれません。
神賛美への招きが高らかに告げられます。「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え」。今日のキリスト教会の礼拝でも「招きの言葉」として用いられています。「新しい歌」とは人間的な新しさではありません。人間的な「新しい歌」は、流行り廃りする流行歌に過ぎません。神の恵みの出来事を物語り歌う賛美は常に新しいのです。永遠の新しさと言っていいでしょう。
「全地よ、主に向かって歌え」と続きます。「全地よ」と呼びかけています。詩人の視線は、神の民イスラエルにとどまらず、世界に向けられています。全地の民、世界のすべての人々、すべての被造物が、神賛美に加わるようにと招いているのです。世界は神に造られたものです。その意味で、世界は神を賛美することが本来の在り方です。この詩編の賛美の基本には神の創造に対する賛美があるのです。
「主に向かって歌い、御名をたたえよ」と促します。神を信じる民だけではなく、最も基本的には「世界の国々の民」、すべての人たちへ向けての神礼拝への招きの言葉です。神礼拝は本来、このようにすべての人々に開かれているのです。人種、民族、階層、性別、貧富などのすべての障壁を乗り越えて捧げられるべきものなのです。「公同の礼拝」とは、そのような礼拝なのです。
しかし現在、現実にはそのようになっていません。いろいろな障壁が存在しています。互いの憎悪もあります。この詩編の詩人はこの重い現実をしっかりと受け止めています。そこで、神賛美の礼拝を終えて世の中に立ち帰る人たちに福音の宣教を託しているのです。「日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。国々に主の栄光を語り伝えよ。諸国の民にその驚くべき御業を」と。
神賛美は、同時に賛美する「神の救いを宣べ伝える」こととなります。「日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ」と語りかけます。「日から日へ」とは、「日毎に」ということです。神を礼拝する者たちは使命を委ねられます。それは日毎に、神の救いの恵みを世の多くの人たちに、世界中の人たちに「良い知らせ」福音として告げ知らせることが求められているのです。
詩の作者は「国々に主の栄光を語り伝えよ。諸国の民にその驚くべき御業を」と訴えています。「国々に」「諸国の民に」と言われています。異邦人と言われて差別され、遠ざけられていた人たちにもです。この詩編では、この異邦人世界への福音の宣教が命じられているのです。イスラエルの民が選ばれたのは世界万民に対する福音の宣教という使命のためです。
この詩編では革命的なことが歌われているのです。民族的な障壁が打ち破られ、諸国のすべての人々が神礼拝へと招かれていることです。主なる神が来られる時には、すべての国々のすべての人たちが、「主に向かって歌い、主に向かって御名をたたえる」のです。そのために今、神を礼拝し、神を賛美している者には世界への宣教の使命があるのだと命じられているのです。神に礼拝を捧げるのは「すべての国々の人々」、「諸国の民」です。この詩における礼拝への招きは諸国民への招きなのです。今日、イスラエルの人々も、すべてのキリスト者も、この詩編のメッセージに心を向けてほしいものです。