聖書=詩編94編1-11節
主よ、報復の神として、報復の神として顕現し、全地の裁き手として立ち上がり、誇る者を罰してください。主よ、逆らう者はいつまで、逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。彼らは驕った言葉を吐き続け、悪を行う者は皆、傲慢に語ります。主よ、彼らはあなたの民を砕き、あなたの嗣業を苦しめています。やもめや寄留の民を殺し、みなしごを虐殺します。そして、彼らは言います。「主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない」と。民の愚かな者よ、気づくがよい。無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。目を造った方に見えないとでもいうのか。人間に知識を与え、国々を諭す方に、論じることができないとでもいうのか。主は知っておられる、人間の計らいを。それがいかに空しいかを。
今回は旧約聖書・詩編94編1-11節を取り上げます。この詩は「報復の詩編」と言われ、多くの牧師は講解説教の中でもあまり取り上げません。しかし、ロシア・ウクライナ戦争、イスラエルによるガザ侵攻などを見る中で、また日本の国の在り様を見る中で、この詩編を取り上げてみたいと思いました。
新約聖書・ローマ書で、パウロは人の報復行為を明確に禁じて、こう語ります。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われると書いてあります」(ローマ書12:19)。わたしたちは報復をしません。してはならないのです。神の怒りと報復があることを、わたしたちは知っておかねばならないのです。
この詩編は読み人知らずです。紀元前8世紀頃の南ユダ王国の退廃の時代、ハバククやイザヤと同じ時代、預言者たちと同じ思いを共有していた人ではないでしょうか。この詩人は武力や富などの力を持ちません。しかし、ユダ王国の指導者層、為政者や富む者たちに対して、激しい怒りを持っています。ユダの民の中に深刻な不信仰と不義、残虐行為が横行していたからです。「十戒の民」であるイスラエル、ユダ王国の中に背神行為が平然と繰り返されていたのです。
「彼ら」と言われているのは、国の指導者層、為政者、上流階級の人たちです。「彼らはあなたの民を砕き、あなたの嗣業を苦しめています」。「民を砕く」とは、細かく砕いてすりつぶすことです。重税か賦役なのかわかりませんが、庶民の生活が成り立たなくなっています。「あなたの嗣業」とは神の民のことです。庶民がすりつぶされて生きていけない苦境、悲惨な状況に置かれていました。
「彼ら」は、「やもめや寄留の民を殺し、みなしごを虐殺します」。夫を失った寡婦、身を寄せている外国人、孤児たちです。これらの人たちは社会的な弱者として保護すべきことが聖書に明記されています。しかし、この人たちが社会に役立たない存在として放置され、虐殺されているのです。恐るべき事態です。
「彼ら」は、預言者の語る言葉には耳をかさず、勝ち誇り、驕った言葉を吐き、傲慢に語り続けます。「彼らは言います。『主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない』と」。「彼ら」は異邦人ではありません。「ヤコブの神」を知っている神の民の指導者です。その「彼ら」が神を無視しているのです。「彼ら」のなしている業は、神に逆らい、人を貶め、命を奪い、虐殺しています。指導者層が生ける神を無視し背神の道をひたすらに走っている。行き着く先は「亡国」です。
そこで、この詩人は神に祈るのです。「主よ、報復の神として、報復の神として顕現し、全地の裁き手として立ち上がり、誇る者を罰してください」と。自分たちで剣や槍を取っての復讐ではありません。生ける神が「全地の裁き手として立ち上がる」ことを祈り求めているのです。詩人が祈り求める「神の報復」とは、やられたからやり返すという「力による復讐」ではありません。神の義と愛、神の公正、神の慈しみが回復される「神の報復」です。生ける神が立ち上がり、神の義と愛をもって公平な裁きがなされることを祈り願っているのです。
「彼ら」、指導者は愚かです。無知です。神が生きて働いていることを知りません。神は、彼らの言葉をしっかり聴きます。残虐非道な行為を見逃すことはありません。「彼ら」は、生ける神を軽んじています。「主は知っておられる、人間の計らいを。それがいかに空しいかを」。主なる神は、この詩人の祈りに必ず応えて、アッシリア捕囚で、バビロン捕囚で、後にユダヤ戦役によって、ユダヤの民を世界に散らされたのです。
生ける神は人間の傲慢を根底的に覆します。高い塔を建て支配を確立しようとした人間の傲慢を突き崩して「バベル(混乱)」とされ、人々を徹底的に散らしました。神は神の方法、神の仕方で徹底して「報復する」お方です。わたしたち、この詩人と共に「主よ、報復の神として立ち上がってください」と祈り求めましょう。