聖書=詩編100編1-5節
【賛歌。感謝のために。】
全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ。
今回は旧約聖書・詩編100編を取り上げましょう。詩編100編も多くのキリスト教の礼拝で「招きの言葉」として用いられています。会衆の心をスーと神に向けさせる不思議な力を持っています。これは、キリスト教会だけではなく、神殿礼拝のために作詞した当初からの目的であったと思われます。バビロンから帰還し、神殿を再建して、神の救出を喜び感謝して、「主に仕え」「み前に進み出よ」「主の門に進み」「主の庭に入れ」という呼びかけの言葉が示すように神殿礼拝への招きの言葉として作られたものです。
前半の1-3節は多くの礼拝者を神殿の広場に導き入れるために先導するレビ人の聖歌隊によって歌われ、後半の4-5節はそれを迎え入れる神殿内の聖歌隊によって歌われたと想像することが出来ます。会衆を神礼拝の場へと招きいれる壮大な呼びかけ、交唱の賛歌です。
「全地よ」と呼びかけています。壮大な呼びかけです。ユダヤ人、イスラエルの人々だけではありません。詩編に特有な呼びかけです。多くの異邦人と呼ばれる人たちへも呼びかけているのです。人間だけではありません。神の被造物の全体、全ての造られたものへの神礼拝の呼びかけです。
「主に仕えよ」と言われます。神に「仕える」とは、神に礼拝を捧げることを意味しています。英語で礼拝を「サービス」と言います。神に仕えることです。神への最高の奉仕が「礼拝」なのです。神礼拝は神に贖われた者たちの賛歌です。この詩編の序言に「賛歌。感謝のために」と記されています。感謝の献げ物としての礼拝です。この詩編の鍵言葉は「喜び」です。「喜びの叫びをあげよ」「喜び祝い」「喜び歌って」と歌われます。神礼拝の基本は感謝の喜びの礼拝なのです。
わたしたち人間は生涯の中で多くの悲哀を体験します。「感謝」や「喜び」ばかりではありません。むしろ、労苦を担い、悲しいこと、つらいことが多いのではないでしょうか。しかし、どのような時にも、神の救いの恵み、贖いの恵みにしっかり目を留めることです。決して失われません。これを感謝して喜ぶのです。
「知れ、主こそ神であると」。シェマーと呼ばれる申命記6章4節「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」を思い起こさせる、この賛歌の基本的な主張です。主「ヤハウェ」こそ唯一の神であると、知性・感性・意志の全人格で認めることが求められています。礼拝とは神の主権を認めて、神をあがめることです。神の主権の承認とは、わたしたちと主なる神との「関わり、関係」を認めることです。わたしたちは主なる神と深い関わりを持っているのです。
1つは創造の関係です。「主はわたしたちを造られた」ことです。神の深い愛情の内にわたしたちは神に似たものとして形づくられました。2つは契約の関係です。「わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」という関係です。信仰の関係と言っていいでしょう。神を愛し、神との交わりの中に生きるものとされているのです。この契約の関係こそ救いの恵みの基礎なのです。
礼拝者を迎え入れる聖歌隊は「感謝の歌をうたって」「賛美の歌をうたって」と、礼拝する者の心の在り方を歌い、「主に門に進み」「主の庭に入れ」と呼びかけます。「主の庭」とは礼拝する場所のことです。今日の教会堂のような椅子やベンチなどはありません。広い広場があるだけです。そこで神殿聖歌隊と集うすべての人たちが声を合わせて、「主は恵み深く、慈しみはとこしえに」と、主の御名と恵みとを賛美するのです。あなたも、このような神賛美の群れの中に加わりませんか。