聖書=詩編68編6-11節
神は聖なる宮にいます。みなしごの父となり、やもめの訴えを取り上げてくださる。神は孤独な人に身を寄せる家を与え、捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。背く者は焼けつく地に住まねばならない。神よ、あなたが民を導き出し、荒れ果てた地を行進されたとき、地は震え、天は雨を滴らせた。シナイにいます神の御前に、神、イスラエルの神の御前に。神よ、あなたは豊かに雨を賜り、あなたの衰えていた嗣業を固く立てて、あなたの民の群れをその地に住ませてくださった。恵み深い神よ、あなたは貧しい人にその地を備えられた。
今回は旧約聖書・詩編68編6-11節を取り上げます。詩編68編はわりあい長い詩で36節まであります。そのため1つの詩の中で主題、構想が大きく変わっています。そこで多くの学者は、背景を異にした幾つかの独立した詩が何かの機会に1つにまとめられたのではないかと推測しています。わたしもその可能性を認め、6-11節を1つの独立した詩として取り扱います。この個所の背景にはバビロン捕囚からの解放が考えられています。
まもなくクリスマスがまいります。クリスマスはイエス・キリストの誕生を喜び祝う時です。この詩編の言葉をクリスマスの意味と重ねて考えてまいりたいと思います。日本では「クリスマス」と言うと、家族で温かな食事をしたり、恋人と楽しく語らう時として受け止められているのではないでしょうか。
わたしは子どもの頃、悲しみをもってクリスマスを何度となく過ごした経験を持っています。このような時に、アンデルセンの童話「マッチ売りの小女」の物語を読みました。そして、ああ、ここにも自分と同じような境遇の人がいる、と慰められました。イエスの誕生は、ベツレヘムの街の人たちによって歓迎されませんでした。自分の同胞のユダヤ人から冷たく受け入れることを拒まれた物語こそが、クリスマス・ストーリーなのです。
詩編68編6-7節に「みなしご」「やもめ」「孤独な人」「捕らわれ人」が出てきます。「みなしご」とは、親を失った孤児のことです。「やもめ」とは、夫を失った女性です。「孤独な人」とは、「身寄りのない者」「寄る辺のない人」のことです。家を失いホームレスになっているような人、捨て置かれている人です。「捕らわれ人」とは、戦争の捕虜となり異境に連行された人です。現代も戦争や内乱によって家を失った人たち、異境の地に難民、流浪の民がいます。「みなしご」「やもめ」「孤独な人」「捕らわれ人」は、今日も世界に大勢いるのです。
この人たちに「身を寄せる家が与えられる」と歌われます。いじけることなく、安心して身を置くことが出来る真の居場所が与えられる福音です。「聖なる宮」とは天にある神の御座を指しています。神は天にいます。その天にいます神が今、降ってきて「みなしごの父となり、やもめの訴えを取り上げてくださる。神は孤独な人に身を寄せる家を与え、捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる」と歌われます。
古代の世界では、孤児とやもめ、捕らわれ人は最も惨めな者の代表でした。今日の福祉施設のようなものはありません。誰も味方してくれず、顧みられず、見捨てられたままです。その見捨てられた者のために、神ご自身が保護者となつてくださるのです。神がみなしごの父となり、やもめの保護者となり、孤独な人に身を寄せる家を与え、捕らわれ人を解放してくださいます。
これこそ、クリスマスの出来事です。この詩編冒頭の2節で「神は立ち上がり」と歌われています。神が立ち上がるとは、神がいても立ってもいられないほどの思いをもって、天の宮で立ち上がり、わたしたちのもとに駆けつけて来てくださるのです。貧しい身寄りのない者たちの保護者となり、憩うことの出来る家を与えるために、神が駆けつけてくださったのです。
その結果、「神よ、あなたは豊かに雨を賜り、あなたの衰えていた嗣業を固く立てて、あなたの民の群れをその地に住ませてくださった。恵み深い神よ。あなたは貧しい人にその地を備えられた」と、豊かな恵みと祝福が与えられると歌います。イエス・キリストは「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」(ルカ福音書6:20-21)と言われました。貧しい者が、神の保護のもとに力強く生きる道が開かれていく。これがクリスマスの出来事なのです。