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第247回 拒まれた救い主

聖書=ルカ福音書2章1-7節

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 

 2023年のクリスマスの時になりました。「メリークリスマス、クリスマスおめでとうございます」と申し上げる時期になりましたが、今年はクリスマスの祝いの気分が沸き起こってきません。悲しみと嘆きの中でのクリスマスです。人間の強欲と傲慢、争いと報復が錯綜する惨めな世界となっています。

 ルカ福音書2章冒頭にクリスマスの出来事が記されています。ローマ皇帝アウグストゥスの治下、キリニウスが総督の時に人口調査(センサス)がなされました。この時代に起こった歴史的な出来事でした。現住地での調査ではなく先祖の地に帰っての「登録」でした。人々の右往左往する動きが伝わってきます。

 「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」という記述は、ベツレヘムで生まれた幼子の生涯を暗示する象徴的な言葉です。わたしが教会に行き始めた頃、クリスマス祝会で日曜学校の先生と生徒が「降誕劇」をしてくれました。産み月のマリアを伴ったヨセフが、宿屋を捜して戸を叩き泊まるところを求めます。憎たらしい顔をした大人が出てきて「部屋は満杯だ。空いてないよ」と突き返します。同じ光景が繰り返されます。やむなく吹きさらしの馬小屋で飼い葉桶の中に寝かされた赤ちゃん誕生となったという物語です。

 今日、世界中でクリスマスが祝われています。皆さまの家庭でも、クリスマスツリーが飾られ、クリスマスディナーを予定しているのではないでしょうか。家族に、恋人に、クリスマスの贈物を用意しているでしょう。ワシントンの大統領官邸の庭には巨大なクリスマスツリーが飾られ、大統領自身が点灯しました。世界中の街々でクリスマスツリーが飾られ、賛美歌が流れ、クリスマスが祝われています。

 しかし、わたしは「本当だろうか」と思っています。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」という言葉は、今も真実ではないかと思っています。スペインのバルセロナにガウディの「サグラダ・ファミリア」という巨大な教会堂が130年余の歳月をかけて建築中です。「サグラダ・ファミリア」とは「聖家族の教会」ですが、本当に「彼らの泊まる場所」になるでしょうか。

 ルカ福音書は「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と記すことにより、イエスはその誕生において同胞から受け入れを拒まれたと記します。ルカ福音書はイエスの生涯の終わりも記します。幼子は成長し、ナザレのイエスとして活動し、自らを神の子メシアとして開示した時、世はイエスを拒みました。当時のユダヤの指導者、祭司長や律法学者たちによって、イエスは捕らえられ、総督ピラトに引き渡されます。ピラトの法廷で、ユダヤの人々はイエスを「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けました(ルカ福音書23:16-23)。イエスは同胞から拒まれ十字架への道を歩みました。これが神の深いご計画であり、イエスご自身が選び取られた道でしたが、歴史の現実として同胞から「拒まれ、捨てられた」のです。

 しかし、やはり「メリー・クリスマス」、クリスマスおめでとう、と申し上げます。それは人の世のこの現実に対して、神ご自身が抗ってイエス・キリストの十字架をもって神の恵みの勝利としてくださったからです。同胞に捨てられ拒まれたイエスを、神ご自身が「隅の親石」(ルカ福音書20:17)として立て、「死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」(ローマ書1:4)。

 クリスマスは、ツリーを飾ることでも、ケーキを食べることでもありません。多くの人によって拒まれ捨てられたお方を、聖霊の働きによって「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ福音書20:28)と受け入れることです。「言(人となられたイエス)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ福音書1:12)。心を開いてイエス・キリストを受け入れて礼拝を献げましょう。それが真のクリスマスです。「おいでください、イエスよ、ここに、この胸に」(讃美歌21/443)。