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第252回 御言葉に生きる幸い

聖書=詩編119編1-19節

 1  いかに幸いなことでしょう。まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。

 9  どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。

11  わたしは仰せを心に納めています。あなたに対して過ちを犯すことのないように。

19  この地では宿り人にすぎないわたしに、あなたの戒めを隠さないでください。

 

 今回は詩編119編のはじめの部分を取り上げます。詩編119篇は「御言葉の詩編」と呼ばれ、聖書の中で最も多い節を持つ最長の詩です。大体8節ごとに、歌い出しがヘブライ語のABCで始められる詩編(日本で言えば「いろは歌)で極めて技巧的な詩です。内容は「道」「主の律法」「定め」「御言葉」「戒め」「仰せ」「命令」というような「律法」を表す言葉が全編にちりばめられ、律法が賛美されています。

 高度な技巧がほどこされてはいますが思想的には深みはなく、処世訓を詠んだ「知恵の歌」と言えるでしょう。人生訓としての律法が語られているのです。捕囚期後の編纂とみられます。この詩においてはまだ生き生きとした律法観が見られますが、やがて固定化して律法主義、律法絶対化へと転化していくことになります。

 主要な言葉を選んで律法の意味とその効用を見ていきましょう。最初は1節「いかに幸いなことでしょう。まったき道を踏み、主の律法に歩む人は」です。詩編第1編の冒頭を思い起こさせる言葉です。同じ思想と言っていいでしょう。「道」とは、律法で示される生活の在り方、行動様式です。この詩編では「道」がいろいろな言葉で表現されていますが、その意味する内容は「主の律法」(トーラー)です。具体的にはモーセの教えた律法、さらに旧約聖書の全体とも言えるでしょう。この詩編は、神の啓示である律法に忠実に従って生きる者の幸いが物語られているのです。

 9節で「どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです」。ここでは「若い人(若者)」に焦点が当てられています。いつの時代でも若い人たちは誘惑や罪に陥りやすい。若者たちが生涯を誤ることなく、歩むべき道を守っていくためには、なにより律法が必要だと語るのです。

 11節で「わたしは仰せを心に納めています」と語ります。口語訳は「心のうちにみ言葉を貯えました」と訳しました。ユダヤ人の家庭では生まれて直ぐから子どもをみ言葉の中で育てました。子守歌も、祈りも、遊び道具も、学習の手引きも、全て聖書の言葉とかかわりを持つように工夫されていました。心のひだにみ言葉、律法が刻印されていったのである。

 わたしたちはいつも聖書を持ち歩くことは出来ません。迫害の時には聖書が取り上げられ、焼かれてしまいます。証しすべき大切な時、手元に聖書がない場合が多い。それだけでなく、日常生活の中で大小となくいろいろな判断や決断が求められます。その時に、わたしたちの判断を導くのは「記憶の中にある聖書」です。日毎の生活の中で信仰的に適切な判断をくだすためにも、心の内にみ言葉を貯えることが必要です。

 19節「この地では宿り人にすぎないわたしに、あなたの戒めを隠さないでください」。わたしたち人間は、この地にあっては「宿り人」(寄留者)に過ぎません。大事な視点です。今日の「SDGs」(持続可能な社会)にもつながる視座です。「宿り人」(寄留者)とは旅人のことです。旧約の人々の一つの自覚は、自分たちは宿り人、寄留者であるという自覚でした。

 これには2つの意味があります。1つは、この地では少数者であることです。慎ましく、他の人たちと協調して生きることです。時には迫害があることも予期しておかねばなりません。2つは、この地に対して無責任になり、旅の恥はかきすてということになる危険です。この地に対して、信仰者として責任を持って生きるのです。これはエジプトやバビロンなどへの寄留体験を背後に持っていると思われます。み言葉によって身を修めることによって神の守りを祈り求めるのです。み言葉に生きることは堕落から身を守り、信仰者として生きる道なのです。