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第253回 御言葉の甘美さを味わう

聖書=詩編119編97-112節

  97  わたしはあなたの律法を、どれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いていま       す。

103  あなたの仰せを味わえば、わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。

104  あなたの命令から英知を得たわたしは、どのような偽りの道をも憎みます。

105  あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。

111  あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。それはわたしの心の喜びです。

112 あなたの掟を行うことに心を傾け、わたしはとこしえに従って行きます。

 

 今回は「御言葉の詩編」詩編119編97-112節からお話しします。旧約聖書で「御言葉」、神の言葉とは厳密に言えば「律法」(トーラー)です。「律法」の基本は「十戒」に表される「……せよ。……してはならない」という命令「掟」であると言っていいでしょう。

 この律法を、人間の自由な行為、手前勝手な行動を規制する「掟・法」として受け取る理解がほとんどです。正しい義の道を指し示す働きを持つと共に、違反した罪人に対してその罪を明白に指摘する働きを持ちます。この規範的な律法理解においては、律法は負荷として感じられ、自由な行為が規制されるものと受け止められます。このような律法には重苦しさを感じるのではないでしょうか。

 ところが旧約聖書の中には、律法を「甘美なもの」として受け止める理解があります。律法を「枷(かせ)」、重苦しいものと理解するのと全く異なる受け止め方、理解があります。この詩編の詩人は「わたしはあなたの律法を、どれほど愛していることでしょう」と語ります。律法を深く心から愛しているのです。詩編119編全体に流れているのは、この律法への深い愛なのです。「律法」と言うと、ファリサイ派の「律法主義」と闘ったイエスの視座からの律法を理解しがちです。

 この詩人は「律法」をあたかも人格あるもののように「愛している」と語り、あたかも恋人の言葉に聴くように「絶え間なくそれ(律法の言葉)に心を砕いています」と語るのです。その理由は103節にあります。「あなたの仰せを味わえば、わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう」と語る点にあります。普通、律法は人の罪を指摘し弾劾する働きをする恐るべきものと理解します。しかし、ここでは、律法は「甘美なもの」だと言うのです。「わたしの口に蜜よりも甘い」のです。

 これは決して詩人が虚偽を語っているのではありません。律法は本来、神のみ心の表れであり、神との親しい交わりが成り立っているところでは、神との語らい、神の言葉は甘美な交わりの言葉なのです。これが律法の本来の在り方なのです。

 律法が「蜜のように甘い」という表現は、旧約の中にしばしば出てきます。詩編19編11節「蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」。預言者エゼキエルは、神によって巻物(律法の書)を食べることを命じられます。そして「わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」(エゼキエル書3:3)と表現しています。

 ここから105節の御言葉の理解が出てくるのです。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」です。この言葉は規制の言葉ではありません。わたしに対して愛情ある「あなたの言葉」です。神の言葉が人生の導きであり、足元を照らす道の光であるということです。神との交わりの中に生きる人の基本的な在り方です。み言葉に信頼し、み言葉から迷い出ないように祈り求めています。ここでは、み言葉が人生の導き、目当てとして受け止められているのです。

 詩人は「あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。それはわたしの心の喜びです」と歌います。「嗣業」とは受け継ぐべき「土地」や生業(なりわい)を考えますが、そうではありません。新改訳2017は「私はあなたのさとしを永遠に受け継ぎました」と訳し、共同訳は「とこしえにあなたの定めを受け継ぎます」と訳します。受け継ぐべきものは「神のさとし、神の定め」です。

 ここから、詩人は自分の生き方を決断しています。心からの喜びをもって「あなたの掟を行うことに心を傾け、わたしはとこしえに従って行きます」と。神と共に生きる自由な生き方なのです。ここには、み言葉の甘美さを味わった者の喜びと献身が歌われているのです。