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第254回 少数者として生きる苦しみ

聖書=詩編120編1-7節

【都に上る歌。】

苦難の中から主を呼ぶと、主はわたしに答えてくださった。「主よ、わたしの魂を助け出してください。偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」主はお前に何を与え、お前に何を加えられるであろうか。欺いて語る舌よ。勇士の放つ鋭い矢よ、えにしだの炭火を付けた矢よ。わたしは不幸なことだ。メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは。平和を憎む者と共に、わたしの魂が久しくそこに住むとは。平和をこそ、わたしは語るのに、彼らはただ、戦いを語る。

 

 今回は旧約聖書・詩編120編を取り上げます。120篇から134編までが「都に上る歌」と表題が付けられています。エルサレム神殿への巡礼途上で歌われたものと推測されます。バビロン捕囚から帰還して第2神殿を建てた時代の編集と言われています。

 詩編120編はあまり注目される詩ではありませんが、神を信じない人が多い世の中で、神を信じて生きる者の苦難と苦悩が歌われている見過ごせない詩なのです。日本社会の中でキリスト者は圧倒的少数者として生きねばなりません。キリシタン時代と異なり、あからさまな迫害はありませんが、時に無視されたり、嘲られ、苦痛を味わうことが少なくありません。

 この詩の作者「わたし」が生きているのは異邦人世界の真っ只中です。バビロン捕囚から解放された人々のすべてが故郷のエルサレム、パレスチナに帰還したわけではありません。何らかの事情で「わたし」はなお異境の地にいるのです。詩人はディアスポラ(散らされた民)と言われている人々の中にいるのです。

 詩人は「わたしは不幸なことだ。メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは」と嘆いています。新共同訳は「ああ」と言う嘆きの言葉を訳出しません。新改訳2017は「ああ 嘆かわしいこの身よ」と、共同訳は「ああ、何ということだ」と嘆きの声を訳出します。詩人は天を仰いで我が身の不遇を嘆いています。

 それは異邦の地に住むからです。「メシェク」は、黒海とカスピ海の間にある地名です。「ケダル」は、アラビヤ砂漠の一部地域を指します。北と南、相当離れた距離にあります。異邦人の住む地名を比喩として語ったのか、遊牧してメシェクに宿りケダルまで行っていたのか、正確には分かりません。詩人はこれらの地名を記すことによって異邦の地で生きざるを得ない身の上を嘆いているのです。

 詩人は率直に祈り求めています。「主よ、わたしの魂を助け出してください。偽って語る唇から、欺いて語る舌から」と。周囲の人々は「わたし」に対して偽りを語り、折あるごとに欺くのです。敵に囲まれているような状況で、敵の舌は「勇士の放つ鋭い矢、えにしだの炭火を付けた矢(火矢)」のようにわたしの心を射るのです。それに対して、詩人も「主はお前に何を与え、お前に何を加えられるであろうか」と神の報復を願います。自分の力では報復できない。問いの形ですが、敵の火矢のような欺きの言葉に対して、神が何らかの報復をしてくれることを願います。詩人の状況を理解する時、神の報復を祈る切ない気持ちが分かります。

 詩人が願っていることは、この異邦の地に「平和」に住むことです。どのような理由でこれら異邦の地に住んだのかは分かりません。「わたしの魂が久しくそこに住むとは」と語ります。異邦の人々の中で堪え難いほど長い年月の生活です。その中で詩人は「平和をこそ、わたしは語るのに」と語ります。これこそ詩人の祈りの言葉です。本来はエルサレムに帰りたい。そこは「神の平和」があるところです。帰りたい、帰れない。この悩みに生きる「わたし」の周囲は「ただ、戦いを語る」人々です。この望郷の思いの中から神に叫んでいるのです。「主よ、わたしの魂を助け出してください」。長い間の日毎の叫び求めでした。

 ここで1節の言葉に戻ります。「苦難の中から主を呼ぶと、主はわたしに答えてくださった」。どのような経緯があったのか分かりませんが、長い年月の叫び願いが聴かれました。神は、報復ではなく、エルサレムへの巡礼の道を与えたのです。今「わたし」は、エルサレム神殿の礼拝へと巡礼の群れに加えられている。これこそ、神の応え、まことの「平和」であると言えるでしょう。