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第255回 主を愛する人は悪を憎む

聖書=詩編97編10-12節

主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り、神に逆らう者の手から助け出してくださる。神に従う人のためには光を、心のまっすぐな人のためには喜びを、種蒔いてくださる。神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ。

 

 今回は旧約聖書・詩編97編10-12節を取り上げます。詩編97編は内容からバビロン捕囚から帰還後のものであると言われています。神殿が再建され、ユダの町々に多くのユダヤ人が住むようになり、その生活への関心が生まれてきた時代の作品であると言っていいでしょう。

 昨年、2023年末、イスラエルがガザ地区に住むパレスチナ人に対して人道を無視した激しい攻撃をし、世界中から非難されています。そのような状況下で旧約詩編を読むことにはいささか躊躇を覚える気持ちがあります。それは詩編全体が、とりわけバビロン帰還後の作品は神の民イスラエルへの祝福が基調音となっているからです。

 バビロンから帰還したイスラエルの民と、長い流浪の果てに再建された20世紀のイスラエルの国とがダブってしまいかねません。今日のイスラエル国の人たちも自分たちを旧約の神の民イスラエルと重ね合わせて、自分たちの「正統性」を主張しているからです。しかし、聖書は血の継承をもって「イスラエル」としてはいません。新約聖書では、神の子となるのは「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく」(ヨハネ福音書1:13)と記しています。そのことを覚えて詩編97編10節以降を取り上げたいのです。

 この詩編は冒頭で「主こそ王」と歌います。大切な言葉です。共同訳では「主は王となられた」と訳します。主なる神ヤハウェの王としての即位宣言です。出エジプトにおいてイスラエルの民を一つにしてカナンの地に導き上られた神が王となり、民を統治される。王としての神の支配を「喜び躍れ」「喜び祝え」と歌い上げます。王である神の祝福は、イスラエルの民に自動的に与えられるのではありません。「すべて偶像に仕える者、むなしい神々を誇りとする者は恥を受ける」と記した後、神への愛と服従という信仰の倫理との係わりで神の祝福を示しているのです。

 イスラエルが捕囚を経験したのは、神を礼拝する者としての基本的な倫理を忘れたからでした。そのため、礼拝者としての在り方、生き方を教え示すのが、この詩編なのです。神を礼拝する者は、同時に生活の在り方、倫理においても責任が求められます。この基本が忘れられる時に、神の民であっても再び、神の厳しい裁きを受けることになります。この詩の作者は、神の視座から偶像礼拝と不義に対して厳しい警告しているのです。偶像を礼拝する者は「恥を受ける」ことになります。そして、神に生きる者は「悪を憎む」のです。神は義と聖で不義を憎む神です。この「悪」とは、人間的な意味での「一般的な悪行」ではなく明白な基準があります。律法の規定、十戒に外れる悪行であることは明白です。

 今日のイスラエルの人々がしている隣人のパレスチナ人への悪業は、明白に律法の規定、十戒・殺すな、隣人を愛せという規定を犯しています。神の厳しい視線から逃れることは出来ません。「主を愛する人は悪を憎む」のです。新改訳2017,共同訳では「悪を憎め」と命令形で訳します。しかし、わたしは新共同訳の訳し方に共鳴しています。「主を愛する人は悪を憎む」。これは「当為」、当然なことという訳し方です。悪を憎むことは「主の慈しみに生きる人」の生き方です。「心のまっすぐな人」の歩む当然の道、誰に命じられずとも行うべき当為なのです。

 このように生きる者を、神はその「魂を守り」、「神に逆らう者の手から助け出し」、「光」と「喜び」の種を蒔いてくださる、と歌います。「種蒔く」とは、素晴らしい言葉です。種は小さい。しかし、土に蒔かれるとやがて次第に確実に成長して花を咲かせ実を稔らせます。神を信じ、神に従って生きる者は、神の光を輝かせ、人生において豊かに実を稔らせることとなるのです。