聖書=詩編32編1-5節
【ダビデの詩。マスキール。】
いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。 いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。 わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。 御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は夏の日照りにあって衰え果てました。 わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました。「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。
今回は旧約聖書・詩編32編を取り上げます。冒頭には1-5節だけを掲げましたが、お手元に聖書をお持ちの方はぜひ全体をお読みください。この詩は「悔い改めの詩」と言われているものの1つです。
聖書の宗教、キリスト教の基本は「罪の赦し」に深く関わります。この詩の作者はイスラエルの王ダビデとされていますが、実際にはもう少し後代の作品でしょう。しかし、この詩を理解するためにはダビデの出来事を思い浮かべることが必要です。ダビデは忠実な部下であったウリヤの美しい妻バト・シェバを王宮に召して犯し、子を宿させました。ことが露見することを恐れたダビデは夫ウリヤを戦いの最前線に送って戦死させてしまいます。(Ⅱサムエル記11章)
誰にも知られなかったはずですが、神は見逃しません。預言者ナタンを派遣して罪の事実を指摘します。ダビデは厳しい指摘に「わたしは主に罪を犯しました」(Ⅱサムエル記12:13)と告白せざるを得なかった。これはダビデ個人の罪ですが、わたしたちも無関係ではありません。わたしたちの思いと言葉と行為の罪過の原型の1つと言っていいでしょう
「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は」。これは罪が赦された時の喜びの言葉です。自分の深い罪が赦され、覆われた時の喜び、感謝の言葉ですが、それ以前は、どうだったのでしょうか。
「わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました」。人は罪を犯した時、先ず隠します。誰にも言わずに「黙し続け」ます。しかし、罪の事実がわたしを告発し続け、重くのしかかります。心が痛み、呻き、肉体まで病むのです。神を知るだけに神の目から逃れられないことを知っています。そのため、「御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は、夏の日照りにあって衰え果てました」。誰であっても、深刻な罪を犯した時、心を病み、うつとなり、病み衰えます。
預言者の指摘によって、ダビデは最早、隠し続けることが出来ません。「わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました。『主にわたしの背きを告白しよう』と」。「わたしは、罪を犯しました」と、ダビデは自分の犯した罪を神に告白し赦しを求めたのです。ダビデの優れたところは、ここにあります。王としての有能さでも軍人としての武勇でもありません。神がダビデを用いたのは、率直に自分の罪を告白する勇気を持っていたからです。
「そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました」。主なる神は、人の罪を豊かに赦す神なのです。しかし実は、罪の赦しは極めて難しいことです。罪は罪です。簡単に赦せるものではありません。神は、赦す神であるよりも、本来、聖にして義なる神で、罪を罪として裁かねばなりません。神が神であるとは、そういうことなのです。では、「聖にして義なる神」が、どうして「赦す神」となるのか。
旧約時代、大祭司が小羊の血を捧げて行う罪の贖いの儀式がありました。これは後のキリストによる罪の贖いの雛形でした。ここにキリストの十字架の秘儀が示されていたのです。人によって犯された罪を、罪なき神の御子が人となって、「我が罪」として担い、十字架で血を流して罪の贖いをしてくださいました。このイエス・キリストの罪の贖いによって、「聖にして義なる神」が「罪を赦す神」となるのです。キリストを信じ、キリストに結ばれるところで、この詩編の詩人が語る冒頭の言葉が分かるのです。「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」。