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第263回 バビロンの流れのほとりに座り

聖書=詩編137編1-6節

1    バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。

2 竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。

3 わたしたちを捕囚にした民が、歌をうたえと言うから、わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして、「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。

4 どうして歌うことができようか。主のための歌を、異教の地で。

5 エルサレムよ、もしも、わたしがあなたを忘れるなら、わたしの右手はなえるがよい。

6    わたしの舌は上顎にはり付くがよい。もしも、あなたを思わぬときがあるなら、もしも、エルサレムを、わたしの最大の喜びとしないなら。

 

 今回は旧約聖書・詩編137編1-6節からお話しします。この詩は国を失った悲しみの歌です。有名な詩ですが読む立場で味わいが少しずつ変わってきます。愛国の立場から読むことも出来ます。この詩編を講解したある方が、このようなエピソードを紹介しています。第2次世界大戦の時、ドイツ軍がフランスに侵攻しました。ドイツ軍の将校が酒席でフランスの少女にドイツの歌を歌うことを求めました。少女はそれを拒んでフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を歌った。ドイツ軍将校は彼女を射殺したということです。このような愛国のエピソードをこの詩から汲み取ることも出来ます。

 しかし、わたしはこの詩編137編は単なる愛国の詩ではないと受け止めています。詩の作者はエルサレムからバビロンに捕らえ移された捕囚の民の一人、神殿で竪琴を演奏していたレビ人だったでしょう。ユーフラテス河の支流ケバル川の岸辺に座り、故郷エルサレムを思い、泣きながら竪琴を爪弾いていました。とそこに、勝利者であるバビロンの男たちがやってきて、「一つ、おまえたちのシオンの歌とやらを聞かせてくれ」と求めます。戦勝国民のおごりです。余興の歌を歌うように、流行歌を歌うように、おまえたちの歌を歌って我々を楽しませろと求めたのです。

 詩人は、黙って竪琴を川のほとりの柳の木に掛けました。「断じて歌わない」意志を明らかに示したのです。「どうして歌うことができようか。主のための歌を、異教の地で」。シオンの歌とは、神をほめたたえる歌、祈りと礼拝の歌です。座興や余興のために流行歌を歌うように歌うことなどは出来ない。今、自分が歌っていた歌は「主のための歌」、神を神として賛美する歌なのだ。

 屈辱の中で、詩人は自分たちがバビロンに捕らえ移された真の理由に思いを馳せているのです。「エルサレムよ」と呼びかけています。エルサレムへの呼びかけは故郷懐かしさの故の呼びかけではありません。神への呼びかけです。

 自分たちが捕囚になったのは、エルサレムを神殿の地とした「あなたを忘れたからだ」、「あなたを思わなかったからだ」と気付いたのです。詩人の心の奥にあるのは罪の自覚です。バビロン捕囚は、ユダの民が軍事的に弱かったからでも、王や為政者たちが外交努力をしなかったのでもない。そうではなく、神の民が神を忘れてきた。神に信頼しないできた。確かに、毎日、神殿の祭儀は行われていた。しかし、指導者も民の心も、神から遠く離れていた。背神の民であったからだ。ここに捕囚の真の理由がある。そのことに思い至っているのです。

 そして捕らえ移された異境の地で、この詩の作者は決意を示すのです。「もしも、わたしがあなたを忘れるなら、わたしの右手はなえるがよい。もしも、あなたを思わぬときがあるなら、わたしの舌は上顎にはり付くがよい」。異境の地で、神への立ち帰りが歌われています。国を失ったのは、神への不信仰、背神の故であった。神を忘れたことだ。国を奪われ神殿は崩壊しています。今は、神を想うことだけです。すべてのものが失われたところで、神への想いが回復したのです。

 日本も、かつて歩んできた愚かな歴史を忘れて、もう一度、戦争のできる国になろうとしています。戦後の平和を担ってきた憲法の平和主義をかなぐり捨てて、再び富国強兵の道を選び取ろうとしています。これは亡国の道です。今日、この時代におけるキリスト者の信仰と決意が問われています。キリスト者は真剣に神を慕い、神の民として生きることです。異境のバビロンの川畔で、自分たちの犯した罪を認めて神に立ち帰ろうとした捕囚の民の嘆きの歌に耳を傾けねばならないのです。