· 

第266回 子供を祝福するキリスト

聖書=マルコ福音書10章13-16節

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

 

 今回は新約聖書・マルコ福音書10章13-16節からお話しします。ここはイエスが子供たちを祝福されたところで、この出来事はマタイ、マルコ、ルカの共観福音書に記される極めて大事なところです。教会が子らをどのように取り扱うか、どのような姿勢で子らを迎えるかということは教会にとって大切なことです。

 イエスはこの時、旅の途中にありました。ファリサイ派との論争が終わってホッとしたところです。その時に「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れてき」た。ルカ福音書では「乳飲み子までも」と記します。連れて来られたのは赤ちゃんから幼児、少年に至るまでの子供たちです。騒がしくなります。乳飲み子は泣き出します。イエス様に休んでいただこうと思っていた弟子たちはカッとなり連れてきた親たちを「叱った」、大きな声で怒鳴りつけました。

 弟子たちとしたら、赤ん坊までイエスに「触れていただく」ことは必要ないという気持ちでした。これは弟子たちのおごりです。弟子たちの気持ちのどこかに子供には、神のこと、信仰のことなど分らない、という思い込みがあったのではないでしょうか。弟子たちの態度に対して「イエスはこれを見て憤り」ました。イエスの「憤り」は珍しいことです。憤慨し、腹を立てた。イエスの激しい怒りの表現です。イエスが弟子たちの中に芽生えている誤った考えを正そうとしたのが、この出来事です。

 自分がキリストの恵みにあずかったら人を誘うのは当然のことです。親が我が子をキリストの元に連れてくるのは自然な親の情です。親が我が子をキリストの元に連れて来る。これが本来の教会のあり方です。しかし今日、子供を連れてくることが少ない。妨げるものが多くあるからです。習慣、無関心、遠慮などです。親は集会中に子供が騒いだり泣いたりしたら迷惑をかける、何か言われないかと恐れています。教会の雰囲気が子を連れて来る妨げになっているのです。

 イエスは言います。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と。これが乳飲み子・子供に対するイエスの基本的な教えです。このお言葉に従って教会を建てていかねばなりません。

 第1は「妨げてはならない」です。「妨害物を置くな」です。騒ぐのを注意するな、ではありません。適切に注意することも必要です。けれど騒ぐからと言って、キリストのもとに子らが来ることを退けたり妨害してはならない。子供も一人の人間で、子供にとってもキリストが主であり救い主だからです。

 なぜ、乳飲み子の存在が大切なのか。彼らは力無き者の代表者なのです。説教を聞いても分からないからと礼拝から幼児を排除することは、説教がよく分からない人や老人、障がい者を排除することです。説教がわからなくても神の祝福はあります。神は、幼児の唇によって賛美され、無きに等しい者をあえて選ぶお方であることを受け止めることがキリスト教信仰の基本です。この基本が忘れられエリート意識が教会の中に入ってくる時、教会は崩れます。「無きに等しい者をあえて選ぶ神」、ここに福音があります。

 第2は「神の国はこのような者たちのものである」ことです。大人が、幼児・子供に学べということです。「子供のように神の国を受け入れる人」とは、信頼する人ということです。乳飲み子・子供は、信頼によって生きる人です。親が差し出してくれるものを信頼して飲み、食べる。お母さんの言うことを素直に信じて生きる。これこそ信頼としての信仰の基本です。イエスが「子供のように神の国を受け入れる人でなければ」と言われたのは、親に信頼して生きる幼児の姿を示して、このように神に信頼するのだと言われたのです。

 人間の最初の罪は、神に信頼しないで疑い、自分の理性、自分の感性、自分の判断によって木の実を取って食べたことにあります。禁断の木の実を食べた人間は、疑問を持つことによって今日の世界を築いてきました。しかし、信仰は信頼なのです。神への信頼、神の言葉への信頼が失われるならば、信仰は成り立たちません。神への素直な信頼があって信仰が成立し、教会が成り立つのです。幼児を呼び寄せて語られたイエスのお言葉はわたしたちの信仰にとって生命線なのです。