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第269回 主はわたしに与えられた分

聖書=詩編16編5-6節

5  主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。

6  測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました。

 

 今回は旧約聖書・詩編16編5-6節という短い箇所からお話しいたします。この詩編は序に「ダビデの詩」と記されています。イスラエルの古い時代の慣習から採られた言葉が用いられており、詩の作者をダビデと理解し、彼の生涯からこの詩を理解していくことも有益です。しかし、わたしはこの詩の作者は幕屋・神殿に奉仕するレビ人ではないかと推測しています。

 この詩編は、神に信頼し神を賛美する詩です。歌い出しの部分に「主に申します。『あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません』」とあるように、詩人は自分の生涯に注がれた神の恵みを喜び歌っているのです。5,6節の大切な言葉を取り上げて解説し、この詩人が自分の歩んできた生涯を肯定し、喜び、神に感謝を捧げている理由をお話しします。

 「主はわたしに与えられた分、わたしの杯」。「わたしに与えられた分」とは「嗣業」(しぎょう)と訳される言葉です。ヨシュアに導かれてイスラエルの民はカナンの地を獲得します。その直前に、主はイスラエル12部族にカナンの土地を分配します。部族の人数によって「嗣業の土地」を分配し、家族には細かく「くじ」によって配分しました。(民数記26章)。この「嗣業の土地」が「神から与えられた分」で、人々はこの土地によって農耕や牧畜などで生活するのです。

 この嗣業の地の配分にあずかれなかった部族がありました。祭司の部族であるレビ族です。レビ族に対しては「彼らの間にあなたの割り当てはない。わたしが、イスラエルの人々の中であなたの受けるべき割り当てであり、嗣業である」(民数記18:20)と言われました。「わたしが嗣業である」とは、具体的には幕屋・神殿に仕えて、イスラエルの民が捧げる「十分の一」の献げ物によって生きることでした。

 この詩の作者はレビ人です。生産手段としての土地を持たないことは生活が不安定であることを意味します。幕屋や神殿で奉仕し、「十分の一」の献げ物によって生きるのです。献げ物がきちんと捧げられねば生きられません。しかし、この詩人は晩年に自分の歩みを振り返って、我が杯は溢れていると告白しているのです。

 「主はわたしの運命を支える方」と語ります。「運命」とは適切な訳語ではありません。共同訳は「あなたこそ、私のくじを決める方」と訳します。主なる神自身が、わたしの生活を定めてくださったという意味です。不安になることもあったでしょう。貧しさも経験したでしょう。しかし、神が共にいまして、自分と家族の生活ができ、神に仕えるわたしの生涯を全うさせてくださったという感謝の言葉です。

 「測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました」。「測り縄」とは土地の測量、分割などに用いられる道具です。土地を計測して自分に配分された地はたいへん素晴らしい地であったと語っているのです。勿論、レビ人は実際の嗣業の地を持ちませんから、この言葉は比喩です。「主の約束されたとおり、彼らの嗣業はイスラエルの神、主御自身である」(ヨシュア記13:33)という言葉通りであった。何一つ不足することはなかったと語っているのです。

 世の生業(なりわい)を持たずに、伝道者として神に専心仕えて生きることは、レビ人と同じように不安定で損な生き方に導かれたと言っていいでしょう。日本では、伝道者であることは富むことを最初から放棄しているのです。しかし、不思議なことに不安定で損な生き方と見られていますが、神は真実です。神ご自身が共にいて、その生涯を守り抜いておられます。神に専心仕えて生きたレビ人は、その生涯の終わりに当たって「わたしは輝かしい嗣業を受けました」と歌います。神に仕えて生きることは損な役回りではなく、神の恵みと祝福の中で生きることなのです。