聖書=詩編34編9-11節
9 味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
10 主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。
11 若獅子は獲物がなくて飢えても、主に求める人には良いものの欠けることがない。
今回は旧約聖書・詩編34編9-11節を取り上げます。この詩は序に「ダビデの詩」とありますが、詩の各節の冒頭の言葉がヘブライ語の「アルファベット」で歌い出される技巧的な詩で、捕囚期後の新しい時代の詩と思われます。
この詩は「知恵の詩」と言っていいでしょう。イスラエルでは民の霊的な指導者として律法を教える祭司、神の言葉を伝達する預言者がいました。この人たちと並んで「賢者」(知者)と言われる人たちがいました。賢者と言われる人たちは、律法を分かりやすく噛み砕いて世俗・一般の言葉で子どもたちに教えたり、過去の預言者のメッセージをその時代の言葉でわかりやすく語った人々です。彼らの著作物が「知恵文学」と言われます。
この詩編34編は、嘆き訴えの詩でもなく、神の救済の出来事を物語る叙事詩でもありません。おそらく年老いた知者・賢者が若者たちに向かって語った信仰的な人生訓と言っていい詩なのです。
「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」という言葉は、詩人の長い信仰生活の中から生み出された言葉と言っていいでしょう。若者たちに呼びかけています。「味わい、見よ」とは、あなた方の歩みの中で示されてきた神の恵み深い取り扱いの1つひとつを具体的に思い起こして見ることを勧めているのです。
わたしたちの人生は順境だけではありません。時に逆境に置かれることもあります。悔しい思いをすることもあります。信頼していた友人に裏切られることもあるでしょう。この詩が「ダビデの詩」と記されていることは全く意味のないことではありません。ダビデも多くの艱難を身に受け、多くの人に裏切られ、身内にも背かれました。
その中で、神は彼を見捨てることなく、恵みの御手をもつて守り抜いてくださいました。ダビデも人です。多くの失敗を犯しました。しかし、神は赦しの恵みをもって、彼を生かし支えられました。ダビデの生涯の歩みを思い見ると、神の恵み深いお取り扱いが分かってきます。わたしたちの生涯も同じではないでしょうか。
人の生涯の中に示されている恵みの事実を指し示して、「御もとに身を寄せる人」、「主の聖なる人々」に呼びかけているのです。このように呼びかけられている人たちは、信仰をもって生きようと願っている若者たちと言っていいでしょう。彼らに向かって「主を畏れ敬え」と語りかけているのです。これが中心的な教え、知恵の言葉です。
詩編111編10節に「主を畏れることは知恵のはじめ。これを行う人はすぐれた思慮を得る」と記されています。主なる神を畏れ敬うとは、神を信じ、神を礼拝して生きることです。信仰者、礼拝者として生きることです。これが最も優れた人生知であると語っているのです。
詩の作者は、このような主を畏れる生き方をする人は「何も欠けることがない」と言います。「欠けることがない」とは、人生に何の障害もないとか、苦労がないというようなことではありません。円満、満ちると言うことです。多くの労苦があっても、神の前で充足して生きるということです。
「若獅子は獲物がなくて飢えても、主に求める人には良いものの欠けることがない」と語ります。獲物を激しく求める百獣の王と言われるライオンが飢えるような時でも、食物が豊かに与えられて生き抜くことが出来ると語っているのです。さらに、この後の節では「長生きして幸いを得る」とも語っています。旧約における「幸い」は具体的です。食物があって命が支えられ、長寿であることです。賢者は、信仰者として敬虔に生きることは、このような具体的な幸いを得させると語っているのです。