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第274回 わたしは罪を犯しました

聖書=旧約聖書・詩編51編1-6節

1  【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。

2  ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】

3  神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。

4  わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。

5  あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。

6  あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。

 

 今回は旧約聖書・詩編51編1-6節を取り上げます。この詩編は悔い改めの詩です。序に「ダビデの詩」とあり、引き続いて「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」に詠んだと記されています。

 ダビデは自分の忠実な部下ウリヤの妻バト・シェバと姦淫の罪を犯し、ことが露見しないようにと夫ウリヤを最前線に送って戦死させてしまいます。このことを知った預言者ナタンがやって来てダビデを面詰しました。その時に、ダビデが詠んだ詩と言われています。

 今日、この詩をダビデ作と見ることは難しいですが、この詩の作者はダビデのバト・シェバ事件を念頭に置いて、自分自身の罪の体験と重ね合わせて、この詩を作ったのではないでしょうか。キリスト教の信仰は罪の赦しを基本にしています。自らの罪を認めて、悔い改めると共に、なお罪人を愛して罪を贖い赦しを与えてくださる恵みの神を信じる信仰です。

 詩人は、真剣に神に憐れみを求めます。「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください」。罪人は神に憐れみを求める以外ないのです。詩人は自分の深刻な罪を認めざるを得ません。

 「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」。詩人の犯した罪が現実にどのようなものであったのかは分かりませんが、他の人にはまだ知られていません。しかし、自らが罪の事実を知り、その事実が自分を告発しているのです。「わたしの前に置かれています」とは、目を背けることが出来ない状況を語っているのです。

 「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」。罪は具体的に人に対して犯されます。しかし、人に対する罪は根本的には神に対して犯された罪なのです。「御目」と言われている神の目を意識したところで、罪の真実が示されるのです。新約聖書・ルカ福音書15章21節で、父親に対して罪を犯した弟息子は「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」と語るとおりです。犯した罪を神との関わりで認め、神に告白する。これが悔い改めです。

 この詩の作者は、罪に対する神の裁きを受け入れます。「あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません」と。自分の中にある根源的な罪・原罪と共に犯した現実の罪を認めます。そして、審きたもう神の正しさを認めると共に、神への憐れみを求めるのです。「深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください」。

 神の御前に犯された罪は、罪を犯した本人が自分で償うことはできません。この詩人はそのことに思い至っているのです。神ご自身が、罪人を憐れんで「背きの罪を拭い」、「洗い清め」てくださる以外に道はありません。ここに、キリストの贖いが求められているのです。罪の赦しはあります。やがて、神の御子が人となられて十字架で罪の贖いを成就してくださいました。ここに、神の慈しみ、神の憐れみがもたらされたのです。赦しは、キリストの元にあります。