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第275回 あなたの重荷を主にゆだねよ

聖書=旧約聖書・詩編55編23節

23 あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。

   主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。

 

 今回は旧約聖書・詩編55編23節だけを取り上げます。わたしの生活の中で、思い惑った時、不安になった時、この詩編の言葉に支えられてきました。牧師になってからも教会員や知り合いの人に手紙などを送る時に「添えて贈る言葉」として用いてきた言葉です。しかし、23節を理解するためには、詩編55編全体を理解する必要があります。お手元の旧訳聖書・詩編55編を開いて全体を読んでみてください。いろいろな気づきが与えられると思います。

 詩編55編は、序に「ダビデの詩」とありますが、もう少し後の時代の詩ではないかと言われています。個人の嘆きの詩に分類されています。詩の冒頭に「神よ、わたしの祈りに耳を向けてください。嘆き求めるわたしから隠れないでください。わたしに耳を傾け、答えてください」と記されています。信仰者として激しく祈り訴えているのです。

 詩の作者は人生途上で多くの艱難に出遭っています。苦労のない人生はありません。わたしたち一人ひとり、この詩の作者と同じように多くの艱難を抱えて生きます。詩人の祈りの言葉は他人事ではありません。わたしたちの人生と重なります。

 詩の作者は内外に多くの艱難を抱えて苦悩しています。悩みの中でうろたえ、不安に直面しています。敵が声を挙げて取り囲んでいます。災いが降りかかってきます。仲間であった者たちが敵になります。心の中でもだえ苦しみ、死の恐怖に襲われることもあります。詩人は、自分を取り囲む苦悩と艱難を思いつくまま整理することもなく激しい言葉で言い表しています。

 その中で、詩人は鳥のように翼があれば、その翼に乗って遠くに逃れたいと思います。一人で荒れ野に逃れて夜を過ごす孤独になりたいとも呻き願っています。さらに、自分に追い迫る者たちに「死が襲えばいい」と呪いさえするほどです。「夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く」というのが、この詩人の姿です。

 詩人の悩み、抱える艱難がどのような事柄であるのか具体的にはほとんど記されていません。それだけに、今日に生きるわたしたちが、ここに自分の姿、自分の悩みと艱難を重ねて読むことが出来るのです。この詩人の苦悩する姿は「わたしなのだ」と読んでくださったら、この詩を受け止めたことになるのです。

 このように苦悩する詩人に語りかけられたのが上記の23節の言葉です。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる」。この言葉は、苦悩する詩人が紡ぎ出した言葉ではありません。上から語られた言葉です。苦悩し祈り求める詩人に対して語られた神の啓示の言葉です。

 わたしたちは重荷を一人で担おうとしているのではないでしょうか。なんとか一人で解決したいと願います。主なる神は「そうではない、わたしがいるではないか」とおっしゃいます。わたしたちは苦しむ時、周りが見えなくなります。信仰者であっても同じです。その時に、主なる神は「共にいる神」に気付かせるのです。「主・ヤハウェ」とは、「共に存在する神、共に行く神」なのです。モーセを選び、モーセと共にある神、モーセと共に歩む神が「わたしはある」というお方なのです。

 イエスはこう言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ福音書11:28-30)。

 イエス・キリストは「共にいます神」です。わたしたちといつも一緒にいて、わたしたちの重荷を共に担ってくださいます。イエスが、わたしと共に歩む神となられたことを知ることです。この主イエスの御許に重荷を下ろし、人生の重荷を共に担っていただこうではありませんか。