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第277回 世の矛盾の中から

聖書=詩編73編1-6節

1  【賛歌。アサフの詩。】

   神はイスラエルに対して、心の清い人に対して、恵み深い。

2  それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ、一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。

3  神に逆らう者の安泰を見て、わたしは驕る者をうらやんだ。

4  死ぬまで彼らは苦しみを知らず、からだも肥えている。

5  だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない。

6  傲慢は首飾りとなり、不法は衣となって彼らを包む。

 

 今回は旧約聖書・詩編73編からお話しします。この73編から83編は「アサフの詩」に属しています。アサフは、ダビデによって任命された幕屋に仕える楽人の名前です。神殿聖歌隊などの活動を司どったレビ人の祖先です。この詩の作者は神殿に仕えて生きたレビ人でしょう。ここでは1-6節までを掲げましたが、聖書をお持ちの方は73編全体をお読みください。

 詩人は「神はイスラエルに対して、心の清い人に対して、恵み深い」と歌い出しています。冒頭に記されていますが、この詩編の結論とも言うべき信仰の告白です。新共同訳は冒頭にある「アー」という呻き声のような言葉を訳出していません。新改訳2017では「まことに」と訳しています。「やはりそうだったのだ」との意味の言葉です。神は、心の清い正しい人にまことに恵み深くあるのだという信仰の告白です。詩人はこの信仰を語ることが出来るために長い間苦しんできたのです。

 この信仰の結論に達するまでの状況を自分の苦悩の状態の中から描いていきます。この詩は神義論的な課題を持つ詩です。神が支配する世界で、なぜ信仰深く正しい者が苦しみ、不信仰な悪人が裁かれずにいるのかということを、詩人の体験の中から問い詰めていく知恵の詩で、詩人の苦悩の中から紡ぎ出された言葉です。

 詩人は、この社会の矛盾した有り様をしっかり見据えます。「神に逆らう者」の生活が安泰で、富に驕り、生活の苦しみを知らず、労苦することもない。それどころか「病も彼らには触れない」と言います。貧富にかかわらず人は病気になると思うけれど、病気の方が避けているのではないかと思うほどです。

 「傲慢は首飾りとなり、不法は衣となって彼らを包む」と告発しています。この詩の作者にとって、「神に逆らう者たち」は傲慢で、人の道である十戒などを平然と破り、暴力を振るい、財をなしている。まさに「悪人」です。彼らの繁栄と自分の状況とを見比べる時、うらみが生じ、怒りが増幅してきます。「わたしは、あやうく足を滑らせ、一歩一歩を踏み誤りそうになった」。彼らに追随して身を誤るか、それとも怒りに任せて報復に身を委ねそうになったと述懐しているのです。

 「彼ら」は神に逆らう実際的な無神論者です。神の力を認めず、自己中心的な生き方をする人たちです。傲慢と華やかさ、富と権力が集まり、人々の注目を集めます。多くの人は彼らの悪しき業に加わり、不敬虔の罪を犯してしまっています。

 翻って詩人は自分の姿を描きます。「わたしは心を清く保ち、手を洗って潔白を示したが、むなしかった」と。信仰的に生きようとする自分の生活が虚しく思えた。かえって「日ごと、わたしは病に打たれ、朝ごとにこらしめを受けた」と語ります。詩人の惨めな現実の姿を見せています。病気や貧しさに追われています。

 そして、詩人は我が労苦の意味を尋ね求めて、聖所にいます神に至ります。「ついに、わたしは神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた」のです。神の啓示を求めて、これを得たと語ります。彼ら不信仰な悪しき者たちの繁栄も平安も夢のようなもの、神の正しい裁きの前には手も足も出ない。その繁栄の姿は実質のない一瞬の虚像であると示されたのです。

 詩人は、自分のこれまでの苦悩が無知の故であったと告白し、神による直接的な答えをいただいた恵みを実感し、神との栄光の交わりへと進みます。生ける神と出会い、神と対話する恵みを「神が近くある幸い」と悟ります。ヨブ記に通底する詩編です。そして、詩人は改めて「わたしは御業をことごとく語り伝えよう」と決意を新しくしていくのです。