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第278回 恥と罪の歴史を語り継ごう

聖書=詩編78編1-4節

1  【マスキール。アサフの詩。】

    わたしの民よ、わたしの教えを聞き、わたしの口の言葉に耳を傾けよ。

2  わたしは口を開いて箴言を、いにしえからの言い伝えを告げよう。

3  わたしたちが聞いて悟ったこと、先祖がわたしたちに語り伝えたことを。

4     子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう。主への賛美、主の御力を。主が成し遂げられた驚くべき御業を。

 

 今回は旧約聖書・詩編78編からお話しします。この詩編78編はイスラエルの民の叙事詩です。出エジプトからダビデ時代までの長い歴史を略述していますが、厳密な年代順ではなく「賛美の形をとった歴史の詩」と言えます。このような叙事詩は詩編の中に多く残っています。「アサフ」は神殿聖歌隊の指導者の名前です。神殿礼拝の中で民族の歴史を朗詠したのです。ここには冒頭の1-4節までしか掲示しませんでしたが、聖書をお持ちの方は詩編78編全体をお読みください。

 詩人は、歴史を語る前に、なぜ、このような詩を作ったのかという目的を語ります。後の世代に伝承するためです。「わたしの口の言葉」「箴言」「いにしえからの言い伝え」は同義語と言っていい。これらは「先祖がわたしたちに語り伝えたこと」であり、「子孫に隠さず」「後の世代に語り継ぐ」べきことなのです。詩人は歴史を物語ることによって、神の民の信仰的な伝統を継承しようとしているのです。

 詩の作者が、神の民イスラエルの歴史を物語る中で、しっかり指摘していることは、歴史的な罪の事実を隠さずに明確に語ることです。日本では歴史修正主義者によって民族の恥となる事柄は隠して偽りの栄光の歴史を物語ろうとしています。聖書が語る歴史は恥を明らかにするのです。自分たち民族の叙事詩を語る時に罪の事実を明らかに語り、真実の姿を継承していくのです。

 「エフライムの子らは武装し、弓を射る者であったが、闘いの日に、裏切った。彼らは神との契約を守らず、その教えに従って歩むことを拒み、その御業をことごとく忘れた」と語ります。「エフライム」は、イスラエル12部族の主要な部族です。その部族が契約を守らず裏切ったと語り出します。このエフライムの裏切りの具体性は分かりませんが信仰的な退却と見ることもできます。

 神の救済の歴史である出エジプトと荒野の旅路が物語られていますが、その旅路で「彼らは重ねて罪を犯し、砂漠でいと高き方に反抗した。心のうちに神を試み、欲望のままに食べ物を得ようとし」たと罪の事実を明記します。イスラエルの民は、出エジプトの真っ只中にいて神の救済のみ業を、その目で見、直接的に体験したにもかかわらず不信仰でした。感謝も賛美もありません。欲望のままに生きたのです。

 神は、岩から水をほとばしり出させ、天からマナを降らせて「彼らは食べて飽き足りた。神は彼らの欲望を満たしてくださった」。にもかかわらず「彼らが欲望から離れず、食べ物が口の中にあるうちに、神の怒りが彼らの中に燃えさかり、その肥え太った者を殺し、イスラエルの若者たちを倒した」のです。神の厳しい裁き見た民は、一度は悔い改めますが、すぐまた神を欺きます。そのような民に対して、神は怒りを押さえ、「神は憐れみ深く、罪を贖われる。彼らを滅ぼすことなく、繰り返し怒りを静め、憤りを尽くされることはなかった」。

 約束の地を奇跡的に与えられたにもかかわらず、イエラエルの民の神に対する態度は、荒野における態度と変わらなかった。「シロの聖所(幕屋)を捨てた」というのは、契約の箱が奪われた事件でしょう。異邦人によって契約の箱が奪われるに任せ、神の「栄光の輝き」を敵の手に渡してしまったのです。

 神は、イスラエルを罰すると共に、新しい歴史を展開させます。神は北王国イスラエル・エフライムを選ばず、南王国ユダとシオンの山を選ばれました。神の選びは、人間的には予想外の羊飼いの子ダビデを選んで、イスラエルの牧者としました。詩人は、このダビデの選びにイスラエルの希望を見ています。この詩編は、神の恵みにもかかわらず、反抗する罪の歴史を描いています。自分たちの背神と罪を銘記し、それに対する神の裁きを物語ります。これがイスラエルの叙事詩です。

 まもなく79回目の8月15日が巡って来ます。過ちを繰り返さないために、歴史の事実をしっかりと見つめ直していきたいものです。かつての日本が犯した侵略と多くの罪過をしっかりと提示して悔い改めを明らかにし、次の世代に語り伝え、伝承していかねばならないのです。