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第279回 神は軍備を喜ばない

聖書=詩編147編10-11節

10  主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。

11  主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。

 

 今回は旧約聖書・詩編147編の言葉を取り上げることとします。この詩編はバビロン捕囚から帰還して、エルサレムの神殿を再建してまもなくの頃の作品と推測されています。ハレルヤ詩編の1つで、イスラエルを顧みてくださる全能の主を賛美する歌です。

 ここで取り上げるのは、この詩編の全体ではなく、その一部、10-11節の短い部分です。バビロン捕囚から帰還した直後の真剣な悔い改めが歌われていると言っていいでしょう。その1節です。「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人」。

 かつて南王国ユダの人々は、北イスラエルがアッシリアに侵略された時、右往左往し、軍備を増強しました。後に、南ユダ王国自身がバビロンに攻撃された時も、人々は上から下まで右往左往し、エジプトに頼り、軍備を増強して国を守ろうとしました。しかし、その甲斐もなく、エルサレムは陥落し多くの血が流され、多くの人々が異邦のバビロンに捕らえ移されていきました。

 この惨めな捕囚の経験を通して、イスラエルの人々は自分たちの罪に気付き、学びをしたのです。国を滅ぼした真の原因は、決して軍備に問題があったからではない。自分たち神の民が神から離れ、傲慢と無慈悲になり、その民の心が神に背いていた罪の故であるからと気づきが与えられたのです。

 バビロンに攻撃された時、ユダ王国の指導者たちは、エジプトや近隣諸国から軍馬や戦車を大量に輸入し、傭兵を雇い、軍備を厚くしたのです。それが、ここで語られている「馬の勇ましさ」「人の足の速さ」(健脚)と言う言葉で語られていることです。しかし、これらの軍備によって国を守ることは出来ませんでした。

 この詩の作者は、つらい敗戦と捕囚の経験を踏まえて、神は軍備によって国を守ることを「喜ばれない」、「望まない」と歌っているのです。「主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人」だと語ります。神が望むことは、多くの人が神を信じて、神に従う人となり、神の慈愛を知る者として生きることです。

 ここで歌われていることは、今日の日本人が気付いて悔い改めねばならない大切な視点です。79年前、アジア・太平洋戦争の敗戦によって、わたしたちは打ちのめされ、つらい経験をさせられました。その敗戦の経験の中から日本国憲法の平和主義が生み出されたのです。軍備を持たず、再び戦争をしないと誓ったのです。

 ところが今、日本の国はかつての歴史を忘れ、再び、軍事大国になろうとしています。軍事費を大幅に増強して、近隣の敵国を攻撃できる軍備を整えています。しかし、軍備によっては、国も国民も守ることは出来ません。軍隊と軍備は決して民衆を守るものではありません。むしろ、国土を破壊し、国民を殺し、国を滅亡させるのです。まことに愚かな道を歩み出しているのです。

 聖書の語る活ける真の神は傷ついた人を癒す神です。ハレルヤ(主を賛美せよ)の賛美の根拠は、「主は恵み深いこと」です。傷ついた人の傷を包み、癒される恵みの神です。「追いやられた人々を集め」「打ち砕かれた人たちの傷を包み」「貧しい人々を励まし」てくださるお方です。

 聖書の語る神は人を生かす神です。大自然を運行して、人と生きとし生けるすべてのものを支えてくださる神です。人が耕しもしない、灌漑もしないにもかかわらず、雨を降らし、植物を芽生えさせてくださいます。人だけでなく、獣や鳥などの動物にも食物を豊かに備えてくださる生かす神です。

 人を豊かに生かすのは、生けるまことの神です。この神は平和の神です。国を守るには軍馬や勇士の力を必要としません。人間的な軍備の増強や計りごとによって国を守るのではなく、真に国を守るのは「主を畏れ、主の慈しみを望む人」に拠るのだと歌われているのです。神は、人が神に信頼して生きることを望んでおられます。神ご自身が、町の「門のかんぬきを堅固にし」、「国境に平和」を置いてくださるのです。軍備を捨てて、神に信頼して生きようではありませんか。