聖書=エフェソ書2章14-16節
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
今回は新約聖書・エフェソ書2章14-16節から「平和」について考えます。今年は敗戦後79年目になります。わたしは1941年の生まれです。日中戦争、太平洋戦争と続き、敗戦となりました。わたしが物心ついた時代は「平和」で溢れていました。平和憲法をもって平和国家を造ると言った夢があちこちで語られていました。町に「平和」が溢れて、子どもの名前から、焼鳥屋も「平和屋」、町の通りも「平和通り」と名付けられました。
ところが今日、平和を語るのは気が引ける時代となっています。平和を語ることは、反米であり、日本国家の在り方に批判的だとする風潮が出てきています。わたしが憂慮するのは、平和を語ることに臆する風潮が教会の中で強くなっていることです。教会員の中に高級官僚や教育委員などがいる教会では、牧師も平和を語らないような感じがします。教会の大きな危機です。教会は、どんな時代でも平和を語り、平和を追い求めいかねばならないのです。
ヨハネ福音書20章19節で、イエスは「あなたがたに平和があるように」と言い、平和(シャローム)を伝えるために「わたしもあなたがたを遣わす」と語りました。「シャローム」と言うヘブライ語は大事な言葉です。現代では「こんにちは」という挨拶の言葉になっていますが、元は神との関わりで罪を赦され、神との交わりに生きることが「シャローム」でした。
同時に「シャローム」は、人と人との関係、人間同士の良好な関係、争いのない状態を示す言葉です。イエスが救い主としてなしてくださったことが「シャローム・平和」の獲得でした。罪の赦しによる神との平和、その平和に基づく人と人との平和、この2つは決して切り離して考えることはできません。
ところが、キリスト教会は長い間、この2つの「シャローム」を切り離してきました。1つは「救霊」という言葉で魂の救いとしての「シャローム」に力を注いできました。教会は罪の赦しによるキリストの福音を語り続けるのです。罪の赦しの福音を語ることが教会の大切な使命です。しかし、福音宣教は魂の救いだけを語るのではありません。福音とは、神との平和と共に、人と人との平和、隣人との許し合いとしての平和を含むのです。
エフェソ書2章14-16節「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。
ここには「キリストの平和」が記されています。パウロは信仰による救いを語った後、イスラエルの民と異邦人と呼ばれていた人たちとの平和を語ります。異邦人とイスラエルの民とを一人の新しい人に造り上げて平和を実現することが、十字架のキリストの福音なのです。
長い間、互いに憎み合い、殺し合ってきた、ユダヤ人と異邦人とが、あたかも一人の人のように和解させる、これがキリストの十字架の御業なのです。簡単にできることではない。何千年にわたる争いの歴史があります。しかし、イエスはこの和解のために十字架を担われたのです。イエスの和解の御業を人間の魂の領域だけに閉じ込めてはなりません。人と人との関わり、国と国との関わり、民族と民族との関わりの中に、神の和解、シャロームを追い求めていくのです。
イエスは、山上の説教で「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ福音書5:9)と語りました。キリスト者は、このように生きるのだと歩むべき道筋が示されたのです。この道筋を目当てに生きるのです。義を追い求め、あわれみ深く、心を清くして生き、その中で、平和を追い求め、平和を実現していくことが、キリスト者として生きる召命です。
キリストに贖われ、神との和解の恵みをいただいた者として、この世界に平和を実現していくことが、わたしたちの召し、召命です。教会こそ平和を語らねばならない、平和のために多くの奉仕をしなければならないのです。一人ひとりが、平和への召しを受けとめ、生活の場で大胆に平和を追い求めて生きていきましょう。