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第282回 「人の子よ、帰れ」と

聖書=詩編90編3-6節

3  あなたは人を塵に返し、「人の子よ、帰れ」と仰せになります。

4  千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。

5  あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。

6  朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます。

 

 今回は旧約聖書・詩編90編を取り上げます。3-6節だけを掲げましたが、90編全体をお読みください。序に「神の人モーセの詩」とありますが、この詩はモーセ期のものでなく、バビロン捕囚を経て神殿再建後の祭儀的詩編と言われるものの1つです。この詩には賛美、感謝の要素と共に深い嘆きと知恵の要素があります。

 キリスト教会では、詩編90編は葬儀、特に前夜式などで朗読されます。人が天に召される時、わたしたちは人生とは何かと考えさせられます。この詩は人間の一生を永遠の神との関わりで歌います。一方では神の永遠性、他方では一晩で枯れてしまう草花に例えられる短い人間の時間です。詩の作者は決して若くありません。人生経験を積み重ねてきた賢人・知者で、旧約の「レクイエム」(鎮魂歌)とも言える詩です。

 先ず、神が賛美されます。神の主権性と永遠性が物語られます。地と人の世が生み出される前から神は存在される永遠のお方で、「世々とこしえに、あなたは神」と賛美されます。その神こそ「わたしたちの宿るところ」と語ります。

 その神が「人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります」。神が「帰れ」と言われて、土の塵から造られた人が塵に帰る、これが人間の死の真相です。「帰る」のヘブライ語は「シューブ」で方向転換する、戻る、故郷に帰るなどの意味を持ちます。人は、神に造られ命の息を与えられて神から出るのですが、神から「人の子よ、帰れ」と言われて神の元に帰る。その期間が人生です。

 「人」と訳された言葉「エノーシュ」は、弱さを持つ人を表しています。弱く、脆く、儚い存在です。「朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」。日本では多くの花が日持ちしますが、パレスチナでは雨期の早朝に咲き乱れた花々が、午後砂漠から熱風が吹くとアッという間に枯れてしまいます。花の命は短い。人の一生はそういうものだと歌われているのです。長いと思える生涯も「御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」。

 「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」。なぜ、人の一生はこのように儚く短いのでしょう。単なる弱く脆い土の器と言うだけのことではない。詩人はバビロン捕囚に示された神の怒りを憶えているのです。

 「御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて、あなたの憤りをも知ることでしょう」。詩人は、人の儚さと速やかな死は人間に内在する根源的な罪への神の怒りの表れとして見ています。神を畏れ敬うところから見えてくる人の儚さの理解です。神の祝福があって寿命を全うしても、生涯は労苦と悩みです。人の儚く有限であることは、被造物性だけでなく、罪に対する神の怒りの結果です。

 ここで、詩人は2つの祈りを捧げます。1つは「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」と祈ります。生涯の日を正しく数えるとは、神を畏れ敬うことによって持つ知恵です。人が弱く脆い存在、罪あることを認めて、神への畏れをもって歩むことが出来るようにとの祈りです。

 2つは「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか」という祈りです。「帰って来てください」とは、原語「シューブ」です。「人の子よ、帰れ」と言われる神に、「主よ、わたしたちのところにお帰りください」と求めているのです。「シューブ」は悔い改めとも訳されます。神に、御心の変更、ご意志の転換を求めているのです。

 「主よ、み心を変えて下さい」「いつまでお怒りになるのですか」と、神の裁きが赦しに変わるようにとの祈りです。裁きと刑罰から救済への転換を求めているのです。この詩人の祈り求めに応えるように、神ご自身が方向転換をして人のもとに来てくださいました。これが、イエス・キリストの到来です。裁く神が救う神となられたのです。このキリストのもとで、わたしたちは赦しと永遠の命を受け、喜びを得て神のもとに立ち帰ることが出来るのです。