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第284回 わたしは人間の恥

聖書=詩編109編22-26節

22  わたしは貧しく乏しいのです。胸の奥で心は貫かれています。

23  移ろい行く影のようにわたしは去ります。いなごのように払い落とされます。

24  断食して膝は弱くなり、からだは脂肪を失い、衰えて行きます。

25  わたしは人間の恥。彼らはわたしを見て頭を振ります。

26  わたしの神、主よ、わたしを助けてください。慈しみによってお救いください。

 

 今回は旧約聖書・詩編109編22-26節を取り上げます。この詩編は、序に「ダビデの詩」となっていますが、捕囚期後の新しい作品です。この詩は構造的にいろいろな要素を含む複雑な側面を持ち、詩想が統一されていません。賛美の詩、嘆きの詩、呪詛の詩などの要素があり、幾つかの詩が編集段階で合成されたのではないでしょうか。ここでは22-26節に限定して取り上げます。

 この個所は、広く言えば個人の嘆きの詩と言っていいものです。しかし、単なる「神への嘆き訴え」と言うよりも、今日の言葉で言えば極めて自虐的な詩であると言えるでしょう。これが今回、この詩の部分を取り上げた理由です。聖書の詩編の中にも、このような自虐的な歌が残されているのだと受け止めてくださったら結構です。

 詩人は語り出します。「わたしは貧しく乏しいのです。胸の奥で心は貫かれています」と。この言葉は実際でしょう。理由は分かりませんが、この詩人は極度の貧困に喘いでいたようです。貧しい人は、周囲の人々から無視され除け者とされます。そのような人の心の内部は極めてナイーブです。人々の心ない言葉に傷つき、無視され、それらは火矢となって詩人の心の奥襞を貫きます。

 詩人は「移ろい行く影のようにわたしは去ります。いなごのように払い落とされます」と、自分の卑屈な姿を物語ります。淋しさは極まり、腰を屈めて、何とか人々の仲間に入れてもらおうとして下手に出ても、人々は詩人を「いなごのように払い落とし」ます。スゴスゴと「わたしは移ろい行く影のように去る」以外ありません。「いなご」は農民にとっては迷惑な存在です。そのように追い払われます。

 なによりも惨めなことは自分の体に現れます。「断食して膝は弱くなり、からだは脂肪を失い、衰えて行きます」。断食は必ずしも信仰心からではないでしょう。貧しさ故のやむを得ない「断食」であったでしょう。きちんと食事が出来ないために、膝は弱わり、皮膚から生気が失せ、体全体が病み弱々しく衰えています。

 これらの言葉から推定される詩人の境遇は、今日の言葉で言えば、住む家を失ってホームレスになった人の姿ではないでしょうか。もう高齢でしょう。人の憐れみにすがって生きる以外ありません。詩人は、こんな自分の姿を見て「わたしは人間の恥」だと自虐的につぶやきます。自分の中に、どこにも人間としての尊厳を見ることは出来ないと感じているのです。「彼らはわたしを見て頭を振ります」。「彼ら」とは世の人々です。世の人々にとって自分は邪魔な存在です。「向こうに行け。あっちに行け」と追い払われます。

 しかし、このような困窮の極みの中にあっても、詩人は神を信じ、なお神に信頼して、神に祈るのです。「わたしの神、主よ、わたしを助けてください。慈しみによってお救いください」と。絶望のどん底からも神に祈る。これが本物の信仰です。豊かさの中で、神に祈るのも祈りでしょう。しかし、貧しさと困窮のどん底の中でも失望しないで祈る。これこそ、本物の祈りです。

 そして、この詩人はこのような自分の生涯が、神の「御計らいであることを、人々は知るでしょう」と語り、神が祝福してくださることを確信します。この詩人は逆転が起こることを確信し、神にのみ、望みをかけているのです。

 新約聖書・ルカ福音書16章に、イエスが語られた「ラザロ」という物乞いの物語が記されています。わたしの思いの中で、この詩人とラザロとが二重写しとなって迫ってきます。ラザロもまた貧しく物乞いをして生きました。しかし、イエス・キリストは「この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれ」ました。そして、アブラハムの言葉として「ここで彼は慰められる」と言われます。逆転の物語がここにあります。