聖書=詩編126編5-6節
5 涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。
6 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
今回は旧約聖書・詩編126編の5,6節からお話しします。詩編126編も「都に上る歌」の1つとなっていますが、この詩には巡礼の要素はあまり感じられません。この詩はバビロン捕囚から解放された恵みへの喜びが基本です。詩人は「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった」と歌い出します。
ここには記しませんでしたが、詩の前半部分ではイスラエルの民が捕囚から解放されて故郷のシオンに帰還した喜びが歌われます。聖書をお持ちの方は、ぜひこの詩編全体をお読みください。詩人は捕囚からの帰還を「主よ、わたしたちのために、大きな業を成し遂げてくださいました」と歌い上げているのです。
バビロンに捕囚となっていた人たちが解放されてしだいに帰ってきました。廃墟となり、人影も少なかったユダヤとエルサレムの街々に人々が集まりだした。わたしはここに、今日の多くの日本人が忘れてしまっている戦後復興の姿を見るのです。日本の敗戦直後、焼け野原のような街々に人が集まりだし、再会する者、抱き合って喜ぶ者、泣き叫ぶ者、人々のざわめきが起こっていました。わたしは、日本の敗戦は神の恵みであったと思っています。そして今日の日本では、その恵みの出来事が忘れ去られているのです。
バビロンから帰還した人たちの見たのも同じような情景ではなかったでしょうか。見渡すかぎりの廃墟です。瓦礫ばかりの街です。しかし、帰還した当時の人々は底抜けに明るかった。自分たちの神への不信の罪がこのような廃墟の原因である。しかし今、神はその罪を罰して、赦し、解放の恵みを与えて下さった。これは神の回復です。神が働かれて「大きな業を成し遂げて」くださった。これを目の当たりに見ているゆえに明るいのです。「喜びの歌が満ち」ているのです。
ここからが、今回取り上げる詩編126編5-6節の言葉なのです。問題はこれからなのです。直面する課題が山積しています。廃墟と瓦礫の街を再建しなければならない。しかも周辺には、イスラエルの回復を喜ばない人々が妨害しようとしています。自分たちが安らかに住まうことの出来る場所を確保し、神を礼拝する神殿を建てることは途方もなく困難な業です。5節、6節で歌われている「涙と共に種を蒔く」、「種の袋を背負い、泣きながら出て行く」とは、農事にこと寄せた祖国再建の事柄です。これからの祖国の街々の再建と神殿の再建は途方もない労苦の課題なのです。
ここで詩人は、種を蒔けば必ず刈り入れが約束されているという法則性や必然性を語っているのでは決してありません。豊作が語られているのでもありません。「涙」を語っているのです。この詩編の詩人は、「種を蒔く」ことにこと寄せて、前途にある苦難を伴う街々の再建事業、神殿再建の事業を物語っているのです。
廃墟の中から「泣きながら出て行」かねばなりません。肥沃な大地ではありません。貧しい土地での困難の多い、報われることの少ない労苦を物語っているのです。開墾しても石ころばかり、種を蒔いても収穫は乏しい。「涙と共に種を蒔く」とは空しさしか刈り取れないということです。
このような厳しい種蒔きの状況とその姿を描くことで祖国再建の困難さを語っているのです。しかし、この詩人はその困難な働きの中で将来に夢と希望を見ているのです。将来に豊かな収穫、主の祝福があることを望むのです。
詩人はこの「束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」と歌います。労苦を伴う収穫を神の祝福として見るのです。種蒔きの当然の結果としての収穫ではなく、神の恵みの結果です。復興は奇跡の出来事です。神は、神に信頼して労苦する者の働きを決して空しくはなさいません。この詩を貫いているのはこの労苦する者に対する神の祝福への確信なのです。