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第287回 主が守ってくださらねば

聖書=詩編127編1-2節

【都に上る歌。ソロモンの詩。】

1  主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。

2  朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ。それは、むなしいことではないか。主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。

 

 今回は詩編127編1-2節を取り上げます。この詩編も「都に上る歌」ですが、巡礼の要素は感じられません。「家を建てる」「町を守る」という言葉のイメージがエルサレムの神殿を指すと考えられたからでしょう。「ソロモンの歌」とありますが、作詩年代はバビロン捕囚からの帰国直後のものです。

 キリスト教会では、この詩編は次の128編と共に、結婚式などの時に読まれます。家庭形成への祝福の詩と理解されるのですが、実際は極めて厳しい現実批判の詩なのです。この詩編で取り上げられているのは日毎の労苦の問題です。何のために、わたしたちは労苦するのでしょうか。

 先ず、家の建築が取り上げられます。「家」には定冠詞がないので神殿の建設とは限りません。バビロンから帰国したイスラエルの民は、何よりも自分の家を建てることに熱中しました。神殿建築などよりも真っ先に自分たちの家を競い合って建て始めました。神殿のことを忘れていたわけではないでしょうが、先ずは自分たちの家を建てることに力を注いだのです。「まずは我が家だ」と

 この詩編の作者が「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい」と語る言葉は、そのような自己中心、自分中心に対する厳しい批判の言葉と言っていいのです。「神を忘れて」とまでは言いませんが、神のことを「脇に置いて」、先ず自分たちのこと、自分の家の建築に狂奔したのです。詩編の詩人の目には、このような姿勢こそが、ユダの民をバビロン捕囚に至らしめた根源的のものではなかったかという厳しい批判の視座があるのです。

 詩人は「主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」と歌います。バビロンから帰還したばかりの頃、イスラエルの人たちの帰還を喜ばない人たちが周囲にたくさんいました。「スキあれば」と多くの人たちが狙っていました。そこでイスラエルの人たちは自警団を作って自分たちの工事と生活を守りました。これは神殿建築の時代までも続いたようです。しかし、どのように堅固に自警しても「神の守り」がなければ虚しいのです。「主ご自身が町を守ってくださる」のです。この言葉は出エジプトにおいて、神が「寝ずの番をされた」(出エジプト12:42)と同じ意味の言葉です。

 わたしたちは労苦して日毎の糧を得ます。「朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる」と歌われます。これがバビロン帰還直後の人々の生活でした。「焦慮してパンを食べる」とは珍訳です。口語訳「辛苦の糧を食べる」、新改訳2017は「労苦の糧を」、共同訳「苦労してパンを食べる」、が分かりやすい。ここで語られているのは単純にパンの問題ではありません。1つの生活の態度です。

 昭和時代の日本人のエコノミックアニマル的な生活と言っていいでしょう。人間的には評価されるかもしれませんが、基本にあるのは自力、自己達成の生き方です。神を排除した人間の業に頼る傲慢な生き方です。神を無視した努力主義は「空しい」。神の祝福と守りがないなら、どれほどの努力も労働も空しくなってしまいます。

 それと対照的に、神を愛し、神に愛される者には、ゆっくりした休みがあり、眠っている時にも、神が働いてくださいます。神に信頼して生きる者には、まことの充実と祝福が約束されているのです。この詩編の詩人は、バビロン捕囚帰還直後から始まっているイスラエルの人たちの「神を忘れ」「神を脇に置いた」生活への厳しい批判を歌っているのです。今日の日本のわたしたちも聞くべき言葉ではないでしょうか。