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第288回 家庭の祝福

聖書=詩編128編1-6節

【都に上る歌。】

1 いかに幸いなことか、主を畏れ、主の道に歩む人よ。

2 あなたの手が労して得たものはすべて、あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか、いかに恵まれていることか。

3 妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木。

4 見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。

5 シオンから、主があなたを祝福してくださるように。命のある限りエルサレムの繁栄を見、

6 多くの子や孫を見るように。イスラエルに平和。

 

 今回は旧約聖書・詩編128編からお話しします。キリスト教会では結婚式などで朗読されることが多い詩です。家庭の祝福の歌で、勤労、妻、子という具体的な日常生活における神の祝福が歌われています。この詩編は、一昔前ならばとにかく、今日では違和感や反発を感じる方もいるだろうと思っています。家父長制、男女の性による役割分担など性差別として問題視されるのではないでしょうか。この詩編を取り上げる中で、聖書におけるそのような課題について、どう考えるべきかをも一緒に見ていきたいと思います。

 詩の前半1-3節は「家庭の祝福」が歌われています。「いかに幸いなことか、主を畏れ、主の道に歩む人よ」と。しかし、単純な家庭の祝福ではなく、「主を畏れる」という神に対する信仰的な敬虔、「主の道に歩む人」の生活と行動が祝福の基本になっています。敬虔な信仰に立つ家庭の営みの幸いが語られ歌われているのです。

 「あなたはいかに幸いなことか」の「あなた」は、一家の主(あるじ)である「あなた」です。「あなたの手が労して得たものはすべて、あなたの食べ物となる」。あなたの勤労が虚しくならず、豊かに祝福され、あなたも家族もその勤労の実を食べるのです。描かれているのは信仰者の労苦とその家庭への神の祝福です。

 「妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木」。「妻は家の奥にいて」とは家の奥で家事にいそしむ妻を指します。この時代「妻」は家の奥にいて表には出てきません。アブラハムとサラの家を見ると分かると思います。「豊かな房をつけるぶどうの木」に例えられるように、妻も忙しく働きますが表には出ません。

 「食卓を囲む子らは、オリーブの若木」。子どもたちが出てきます。家族が揃って食卓を囲んでいる光景です。子らを「オリーブの若木」に例えます。若木は芽生えてきた若々しい枝で新しいいのちの躍動を示す言葉です。ごく普通の家族の食卓の団欒の光景の中に、詩人は感動をもって「幸い」を実感し歌っているのです。

 「見よ、主を畏れる人はこのように祝福される」。詩人は、ここから大きく視野を展開させます。詩の前半を受け止めて、社会のすべての人への勧めの言葉となっています。1つの家の幸いが、神の民全体の幸いと祝福の源泉と見ているのです。「信仰共同体の幸い」が、ここにあると語りかけ、訴えています。「見よ」とは、多くの人に呼びかける言葉です。「見てご覧なさい」、「主を畏れる人は」このように祝福されるのだと、イスラエルの民全体への勧めの言葉です。

 「シオンから、主があなたを祝福してくださるように」。「シオン」は神殿の地です。神は、主を畏れる「あなた」を祝福されます。「あなた」は単数ですが、神の民全体です。「エルサレムの繁栄」は「幸い」と同義で、共同体全体の幸いの源泉が家庭の信仰と敬虔にあると語っているのです。「多くの子や孫を見る」は繁栄のしるしです。主を畏れることは神の民全体の祝福の源泉だと訴えているのです。

 最後に「イスラエルに平和」と語られます。結婚、家庭の形成、勤労と豊かな食卓は、平和(シャローム)の基盤なくしては存在しません。その平和は神と共にあります。主を畏れることは平和の道であり、家族と共同体の繁栄の源泉なのです。

 ここまで詩人の言葉に従って詩編を読んできました。この詩には、今日的に言えば家父長制的な表現があり、男女の性による役割分担などが読み取れます。問題は、この詩が作られたのは紀元前4世紀頃ということです。詩人はその時代の中で生き、思索したのです。その時代に生きた人の紡ぎ出した言葉です。詩人の語ろうとしている中心点、主張点をしっかり理解したら、それでいいのです。家父長制や男女差別などをも神の制定などと決して考えてはなりません。